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血圧計の数値を眺め、ガードナーはため息をついていた。 七十二の四十八。 ――低すぎるな。 熱は七度六分。微熱もここ数日下がらないらしい。 それにプラスして、昨夜はここに来て初のノック・バックが起こったという報告も、主治医のレオンから届いていた。 GMDを投与したばかりだということは、血液中のGMD汚染が激しいと言うことである。 少量の採血ではうまく分離作業を行うこともできない。 「亮さん。気分が悪いことはないですか? 今日はお疲れのようなので、また次回――」 採血室のベッドに横たわった亮に向かい、ガードナーはそう切り出した。 しかし亮はその言葉に首を振る。 「大丈夫です。血、取って下さい」 「そうは言っても、この体調で採血を行えば、亮さんの身体が持ちません。あなたは貴重なゲボなのですから、無理はしないで――」 「平気――、お願いだから、オレの血、採血して下さい」 あまりの必死な様子に、困ったようにガードナーは傍らに立つノーヴィスを見た。 採血がキャンセルになることを喜ぶゲボは居ても、こんな風に血を採ってくれとせがむ者は今まで見たことがない。 「亮さま、また次回がありますから、今日は――」 「だめだよっ。ちゃんと、仕事、できないと、だめ、なんだ。ちゃんと、採血も、で、きないと」 息継ぎの荒さが亮の体調の悪さを物語っている。 ガードナーは「わかりました」と頷いてみせると、アルコールで念入りに消毒し、亮の腕に採血用の太い針を突き刺していく。 「ガードナーさん、あのっ――」 不安そうに声を掛けてきたノーヴィスに、ガードナーは目配せしながら頷いて見せた。 「それじゃあ採血しますから、亮さんはしばらくこのままお休み下さい」 「っ、はぃ」 亮は自分の腕に刺さった管に赤い液体が流れ込むの見ると、安心したように目を閉じる。 数分もしないうちに、亮の口元から、静かな寝息が聞こえ始めていた。 「――よほど疲れているんだな、こんなにすぐに眠りに落ちるとは」 言いながら、ガードナーはすぐさま亮の腕に刺さった針に手を掛ける。 「今日はこのまましばらく休ませて、昼頃にここを出ればいいだろう」 ガードナーの手が針を引き抜くと、深紅の滴りがぽたりと亮の腕に落ちていた。 アルコール綿でぎゅっと腕を押さえ、ノーヴィスに亮の腕を預ける。 「血が止まるまでしばらく押さえておきなさい。弱ってる分、止まりが少し遅いかもしれない」 「はい。あ、ありがとうございました」 ガードナーが亮の気を落ち着かせるため、採血を形だけでもして見せたことに、ノーヴィスはとても感謝しているようであった。 「しかし、話は聞いていたが、ここまで衰弱しているとは――。食事はとれているのか?」 「今日は朝、フルーツを少しだけ口にされましたが……、昨日はほとんど一日、何も食べられない状態で――」 「まだセブンスに入って四日目だろう。こんな状態では、この先身体が持つわけがない。それで採血までこなそうとするなんて、この子は命がいらないのか!?」 研究者として貴重なゲボが身体を粗末にするのは、決して許せることではない。 亮の様子を目の当たりにし、ガードナーは朝から非常に不機嫌であった。 「亮さまは、ガーネット様のお言いつけを守ろうと必死なのです。採血とゲスト。自分に割り当てられた仕事をこなすことで、ヴェルミリオ様をお守りしようとしているんです」 ノーヴィスの話に、ガードナーの表情がますます険しくなる。 「ヴェルミリオだと!? あんなクズの為に、この貴重な種が失われたらどうするつもりなんだ。ガーネットは何を考えているのかさっぱりわからん」 検査結果の折、話を聞きに来ていたガーネットの様子を思い起こしてみるが、特に変わったことはなかったようだった。 シドへの嫌がらせのためにこんなことをしているとは思えなかったが、亮への駆け引きにシドの話を持ち出しているところを見ると、そういうくだらない感情が働いていることも考えられなくはない。 「とにかく、一度ガーネットに話をしてみる。ゲストより採血の方が大切だ。こんな状態じゃ話にならない」 「は、はいっ、お願いします!」 思わぬ所からの援軍に、ノーヴィスはうれしさを全身から滲ませ、思い切り頭を下げていた。 日本式の亮への応対がそのまま出てしまったらしい。 ガードナーはその後すぐに自分の研究に戻るため部屋を出て行ったが、ノーヴィスは亮が目覚めるのを待ち、二時間後採血室を後にしていた。 背もたれのゆったりとした豪奢な車いすに亮を乗せ、ゆっくりと研究棟の渡り廊下を進んでいく。 正午の暖かな夏の日差しが、ガラス張りの壁からさんさんと降り注いでいた。 「ご気分はいかがですか」 「うん、大丈夫だよ。なんか少し、身体が軽くなった気がするけど」 採血跡のアルコール綿を眺めながら、真面目な顔で言う亮に、ノーヴィスはつい笑ってしまう。 「身体が軽く感じるほど血を採ったら大変ですよ、亮さま」 おそらく、採血室で取った仮眠が、思いの外亮の体力を回復させてくれたのだろう。 仕事を一つ終えたという達成感も手伝って、亮は久しぶりに晴れ晴れとした様子である。 「亮さま、ご気分がよろしいようでしたら、少しお外を散歩なさいますか?」 「え? いいの? ガーネット様は外出禁止だって――」 「採血日の散策は健康促進の一環として認められているんですよ。もちろん、決められたコースのみですけどね?」 ノーヴィスの提案に亮は振り返ると、嬉しそうに微笑んでいた。 その笑顔をノーヴィスは眩しそうに眺める。 亮をずっとこの笑顔で満たしてやりたい――そう、心の底から思った瞬間だった。 「うわぁ、すごい! 映画の中みたいだ」 亮は整備された遊歩道を車いすに乗せられ進んでいく。 頭上にかかる木々の合間から、高く青い空が覗き、吹きすぎる涼風に、亮は気持ちよさそうに目を細めた。 「寒くはないですか? 日本の夏に比べれば、ここの気温は春先程度しかありませんから」 今日の気温は十六度。 天気がいいせいか、この土地にしては暖かい方だったが、それでもこの季節三十度近くなる日本からやってきた亮にしてみれば、決して暖かいとは言い難い。 「平気だよ。コートも着てるし、タオルケットも持ってるし」 亮は先日ノーヴィスに用意してもらったタオルケットを抱えてご満悦のようであった。 「それに、日本にいても、シドが機嫌悪いと、すぐ、部屋の温度、下がっちゃうから、あんま、かわんない、かも」 「ほら、あまり、急いで喋られては息が――ゆっくり、ゆっくりでいいですからね?」 「うん。わかってる」 ここ四日の間で亮は一番楽しそうだった。 体調は決して良くはないはずなのだが、それでも興奮したように首を巡らせ、辺りを見回す。 セブンスの後方に広がる大きな森の中を、亮とノーヴィスはゆっくりと進んでいた。 頭上から鳥の鳴き声が聞こえ、柔らかな風が髪をなぶる。 亮はその感触にうっとりと目を閉じた。 「木と草と、土の匂いがする」 「もしかしたらリスや野ねずみが道を横切るかもしれませんよ?」 「リス!? ほんと!?」 亮の目がすぐさまぱっちりと開くと、きらきらと輝きながら前方に向けられる。 「この辺りにはいっぱいいますからね。その内亮さまもお会いできますよ」 「そっかー。見たいなぁ。野ねずみって大きいんだろ? カピバラくらいあんだよね?」 「――そ、そういうのはまだ見たことないですね」 亮の不思議な勘違いにノーヴィスが苦笑した。 「ノーヴィスは何でも知ってるんだな。日本語も上手だし、料理だってできるし、勉強も教えてくれるし、ソムニアのことも、何でも知ってる」 「はい。私はここで育てられて、色々なことを教えていただきましたから。身よりのなかった私がここまで生きてこられたのは、IICRのおかげだと思っています」 「え? ここで育ったって――」 亮は思わぬノーヴィスの言葉に振り返っていた。 確かノーヴィスは系列会社からの派遣で、ここに勤めていると聞いていたからだ。 「ここにいる執事達は皆そうなんですよ。私は生まれつき男性機能がうまく働かず、それを見込まれてIICR管轄の施設へ引き取られることになりました。そこで専門的な教育を受け、外国語選択では日本語を選びました。――極東からゲボが現れるわけがないと、最初は周りの者に笑われたものです。日本語を選択しているのも私一人で、ちょっとバカにされたりして――。でもあの時日本語を選んでいて、ノーヴィスは本当に良かったと思っています」 幸せそうに微笑むノーヴィスの顔を、亮が見上げる。 「日本語を学んでいなければ、亮さまの従者には選ばれませんでしたから――。あの時笑った連中が、亮さまのお写真を見て真っ赤な顔で悔しがった時は、実は私、とてもスカッとした気持ちになったんですよ。――他の執事たちには内緒ですけどね?」 いたずらっぽく片目を閉じて見せたノーヴィスに、亮は目を丸くしていた。 マジメで優しいノーヴィスも、こんな風に思うことがあるなんて、思っても見なかったからだ。 それと同時に、無性におかしくなり亮の口から笑い声が漏れる。 ノーヴィスもつられて笑い出し、二人して少しの間、わけもわからず声を出して笑いあった。 「ね、ノーヴィス。いつかさ――」 大きく息をつき、亮は頭上の木々を見上げると言う。 「いつか、一緒に日本に行こうよ」 「――亮さま……」 「あ、わかってるよ? ここから出られないってコト。でもさ。シャルルだって日本に来てたし、十年後か、二十年後か、わかんないけど。それでも、絶対いつか、一緒に日本に行こう?」 亮の言葉に、ノーヴィスは微かに頭を垂れて「はい」と答えていた。 こんなに切ないのに、夢のように幸せで、自分がどんな顔をしていいのかわからない。 「春だったら桜を見に行こう。夏だったら、花火と野球。秋は紅葉を見て、焼き芋焼いて。冬は――寒いからこたつでみかん」 嬉しそうに遠い未来の予定を話す亮の表情があまりにも明るくて、ノーヴィスは泣き出してしまいそうだった。 思わず立ち止まり、下を向いてしまったノーヴィスに、亮がきょとんとした顔で声を掛ける。 「ノーヴィス?」 「そ……ですね。亮さまの故郷を、ノーヴィスに案内してください。――亮さまの好きな場所、たくさん、たくさん見せてください」 ノーヴィスは顔を上げると、にっこりといつも通り微笑んで見せた。 「その日のために、ノーヴィスはもっともっと亮さまに色々教えていただかないと」 再びノーヴィスが歩き出すと、亮は安心したように視線をまた森へと戻す。 「じゃあ今度、オレがノーヴィスにおいしい日本のご飯、作ってあげるよ」 「え、亮さまがですか!? じゃあその日はノーヴィス、たくさん走ってお腹を減らせておかないと」 「えー、どういう意味だよぉ」 「フフフ、冗談ですよ。亮さまがお料理得意だって知ってます。今から楽しみです」 「でも今日はノーヴィスが作ってね? ――オレ、オムライス食べたい」 「はい。じゃあ帰ったら、新鮮な卵いっぱい使って、ふんわりオムレツ作りましょうね。しかも自家製トマトソースですよ?」 きらきらと降り注ぐ木漏れ日の中、二人は楽しげに進んでいく。 四日に一度の休日は、彼ら二人にとってひとときの安らぎであった。 |