■ 2-25 ■ |
イェーラ・スティールが部屋を出た後、亮の元へ駆け寄ったノーヴィスは、一瞬息が止まるほど驚いた。 先日の悪夢が再び起こったのではないかと思ったのだ。 しかし、近づいてみると、亮はどうやら眠っているだけのようである。 その寝息は安らかで、特に外傷もない。 シーツの上には目を覆いたくなる情事の跡が、染みになっていくつも広がっていたが、それでも亮本人は無事のようであった。 「亮さま? どこか、痛いところはありますか? 亮さま」 眠っているのを起こすのは気が引けたが、状態の確認だけはしておかなくてはならない。 亮を抱え起こすと、優しく目覚めを促す。 「――、ノ、ヴィス?」 うっすらと黒い円らが開かれると、ノーヴィスの姿を映し出した。 「ご気分は? ドクターをお呼びしますか?」 しかし亮は小さく首を振ると、再び目を閉じる。 「だいじょぶ――、どこも、いたく、ない……」 言い終わる前に、亮の口元から小さな寝息が漏れ始める。 よほど疲れたのだろう。 二週間ぶりに取ったゲストだ。無理もない。 ノーヴィスは眠りこける亮の身体を抱き上げると、バスルームへと運んでいく。 このとき、まだノーヴィスは気づいていなかった。 亮の様子が少しおかしいことに。 それに気がついたのは、翌日昼を大きく回ってからだった。 あれから亮はまるで目を覚まそうとしない。 無理に身体を揺すれば、言葉は返してくるのだが、それも最後まで言い終わる前に再び眠りに入ってしまう。 連絡を受け、亮の部屋にレオンが訪れたのは、夕方に入った頃であった。 「亮くーん、聞こえるかなあ? 亮くーん、お返事、できる?」 お気に入りのタオルケットを抱え込み、ひたすら眠り続ける亮に、レオンは大きな声で呼びかけを行う。 「……ん、」 声に反応し寝返りを打つが、結局それだけで亮は再び眠りに落ちていく。 レオンが亮の身体を抱え起こし、揺すってみると、ぴくりと亮の瞼が動き、ぼんやりと開けられた。 「どうしちゃったかな、亮くん。ずっとおねむになっちゃったね」 「――レォン、せんせ? 点滴の、時間?」 「夕べの点滴も、今朝の点滴も眠ったままだったけど、気がついてた?」 「・・・、オレ、いっぱい、寝た、かな」 「そだね。そろそろ起きようか。ね?」 「うん――、も、ちょと、した…ら…起き――」 言い終わる前に、亮の口からは寝息しか聞こえなくなる。 レオンは珍しく深刻な顔で亮を横たえると、毛布をかけ直してやった。 「いつからこんな状態? 昨夜の時点でおかしかったのかな」 「はい、多分、昨日スティール様が帰られてから――だと思うのですが」 「ゲスト取ったの? 退院したばかりだよ?」 「申し訳ございません。亮さまがどうしてもと。スティール様は特別だからと、おっしゃいまして」 レオンの口からため息が漏れた。 スティールといえば、イェーラ種のカラークラウンである。 亮がゲボでなかったとすれば、この症状は明らかに一つの事態を意味していた。 その可能性を考えると、レオンはこの先を口にすることがためらわれてしまう。 「ドクター?」 戸惑った様子のレオンに、ノーヴィスが不安げに声を掛ける。 「あ、ああ。いや、この様子だけ見ると――だねぇ。いや、でも、亮くんはゲボだし、それはないと思うんだが……」 「あの、ドクター、亮さまの状態はどうなんでしょう? いつ、目を覚まされるんでしょうか」 煮え切らない様子のレオンに、ノーヴィスが詰め寄る。 レオンはもう一度大きく息をつくと、言葉を選びながらゆっくりと話を始めていた。 「イェーラとの性交の後、ずっと眠り続けるという症状は、その、――受胎している可能性が高いんだ。いや、もちろん、亮くんはゲボだし、そんなことはないと思うよ? 疲れているだけの可能性もある。――でも、このまま目を覚まさないとなると、もしかして……」 「やめてくださいっ! そんな、そんなことあるはずありませんっ。亮さまは、ゲボですよ!? ゲボがイェーラに受胎させられるなんて、そんなこと――」 ノーヴィスは悲鳴を上げていた。 あの日、スティールの冗談に恐怖で泣き続けた亮の姿が思い起こされる。 「いや、そういう例がないわけではないんだ。過去、何度か、イェーラがゲボに使い魔を生ませた記録が残ってる。まぁ、その場合、極端にイェーラの力が強くゲボの力が弱いケースか、ゲボが進んで自らイェーラからの受胎を望んだケースか――そういった特殊な場合に限られるんだけどね」 ノーヴィスは真っ青な顔でレオンの言葉を聞いている。 今にも倒れ込んでしまいそうで、レオンはノーヴィスに椅子を勧めた。 しかしそれにもノーヴィスは答えを返さない。 「亮くんのゲボとしてのポテンシャルは、どう考えてもスティールのイェーラ能力より上だ。それに、彼はスティールを嫌っていたろう? だからそんなことはあり得ない話で――」 どさりと音をたて、ノーヴィスが床に崩れ落ちていた。 レオンが慌てて腕を取ると、椅子に座らせる。 「ノーヴィス? 大丈夫か? 何か気に掛かることでも――」 「亮さまは、入院中からずっと、スティール様に会いたいと、そればかりおっしゃってました。みんなには内緒だと恥ずかしそうな様子で――。まさか、こんな、こんな事になるなんて……」 ノーヴィスはよろよろと立ち上がると、寝息を立てる亮の顔をのぞき込み、その頬をそっと撫でる。 「それじゃ、キミは亮くんが望んでスティールの種を受胎したと――」 「望んでなんかいません! そんなはず、ありませんっ! きっとあの方は何か卑劣な方法で、亮さまの中に汚らわしい使い魔を――」 「随分なことを言ってくれるね、ノーヴィス」 二人が視線を上げると、玄関の側には当の本人であるイェーラ・スティールが苦笑を浮かべながら立っていた。 どうやら四時を回り、スティールがリザーブを許可された時刻を過ぎていたらしい。 ノーヴィスは斬りつけるような視線でスティールを睨み付けると、ふらふらと立ち上がる。 「亮さまに、何を、何をされたのですかっ!」 つかみかからんばかりのノーヴィスを羽交い締めにして止めると、レオンも険しい表情でスティールを眺めやった。 「それは私も聞きたいな。ゲボを受胎させるなど、ここ数世紀、聞かない話だからね」 「特別に話すことなど何もありません。ただ、退院直後で亮のアルマが弱っていたこと。そして亮が私を愛してくれていたこと。この二つが重なっただけに過ぎない」 肩をすくめると、ゆっくり亮のベッドへと歩み寄っていく。 スティールが近づくと、亮の瞼が微かに震え、ゆっくりと大きな瞳が開かれる。 「気分はどうです? 起き上がれますか?」 「リュナス様――」 そろりと腕を伸ばし、亮はスティールへ甘えるようにしがみついていた。 まるで、自分の血を吸った吸血鬼の来訪を待ちわびる少女のように、受胎させたイェーラが訪れれば亮ははっきりと目を覚ます。 亮の目覚めでレオンは確信していた。 間違いなく、亮はスティールの使い魔を受胎している。 「お二人とも、出て行ってくださいますか? それとも――受胎中にする行為に興味がおありでしたら、邪魔にならない場所で見学していってもかまいませんが」 受胎した者は食事もとれず眠り続ける。 代わりに、受胎させたイェーラが訪れたとき、同じ行為を繰り返すことによってのみ、アルマの生きるエネルギーを補給できるのだ。 また、使い魔が加速して成長しようとするのを抑制する働きもある。 受胎させられた者が何日も相手のイェーラに会えなかった場合、一方的に力を吸い上げられ、眠ったままアルマを食い破られて死亡してしまう。 そうした場合でも、使い魔だけは生まれ落ちることが可能だ。 もちろん、完全体ではないため能力は半減しているが、酷いイェーラになると、こういったなり損ねの使い魔ばかりを大量に作り出し、物量で能力を誇示する者もいる。 とにかく宿主の安全を考えた場合、受胎中に相手のイェーラの来訪を拒むことはできない。 「わかった。だが、無理はさせないでくれ。まだ亮くんの身体は完全じゃない」 「心得ています」 「それから亮くん、明日、朝一番に検査入院してくれるかな。念のためだから――」 「ドクターっ!」 責めるように叫んだノーヴィスの声に、レオンが苦しげに眉を寄せる。 「ノーヴィス、大丈夫だよ。オレ、元気だし、どこも痛くないし。心配しないで? ちゃんと、レオン先生のいいつけ、守るよ」 いつもと変わらぬ笑顔を亮に向けられ、ノーヴィスは悲痛な表情で俯いてしまう。 「ごめんね。こんな風に、ずっと寝ちゃうとか、オレ、知らなかったから――。また、いっぱい心配かけちゃうな」 「亮さま・・・」 「さあ、もういいでしょう? 私と亮の甘い時間をこれ以上削らないでいただきたい」 スティールはベッドに座ると、亮の身体を抱き寄せる。 レオンはまだ部屋から去りたがらないノーヴィスを連れ、部屋を後にしていた。 エレベーターホールで震えの止まらないノーヴィスの背中をさすってやる。 「ショックなのはわかるけど、亮くんが好きだっていうなら、しょうがないじゃない」 「違います。こんなの、違います」 「確かに今までのスティールのやり方を見ていれば、あんな風に言う亮くんの気持ちは正直よくわからない。でも、何かのきっかけで好意を持ってしまうことはあるものだし、好き嫌いは当人にしかわからない問題だから──」 「ドクターは何もわかってらっしゃらない! あの日、亮さまの爪を剥いだのは、スティール様です! ライラック様じゃない!」 勢い余ったノーヴィスの声がホール中に響き渡っていた。 もちろん、この階にいるのはノーヴィスとレオンだけであり、部屋にいるスティールたちには防音効果で聞こえることはないが、それでも突然の驚きの情報に、レオンは目を丸くして呆気にとられるしかない。 「ちょ、そんなこと大声で――、冗談や悪口にしちゃ、たちが悪いよ、ノーヴィス」 あの件は亮の証言もあって、全てライラックの行為だったということで片が付いている。 もちろん、GMDを使ったという行為の方が大きく取りざたされていたのであり、爪を剥いだという事自体はあまり問題として取り上げられてはいない。 しかも事件の最中眠り込んでいたノーヴィスの意見はあまり重要視されておらず、ライラックを裁く法廷にノーヴィスが呼ばれることもなかった。 それを今になって、あれがスティールのした事だったと言われても、はいそうですかと頷くことは出来ない。 それでもノーヴィスはあの日の朝方、部屋を片付けた時の状況を、レオンへ話して聞かせる。 次第にレオンも深刻な表情でその話に聞き入っていた。 もちろん、語られたことはノーヴィスの憶測に過ぎない事だし、ライラックがゴミ箱へ亮の爪を捨てて帰った可能性もないわけではない。 そのせいでノーヴィスも確信のないことを話すべきなのかどうか、戸惑っていたらしい。 だが、その話に違和感を覚えたことはレオンも同じであった。 「わかった。とにかく明日、医療棟でジオットにもその話をしてもらえるかな。亮くんの様子を見ながら、三人で何か方法を考えよう」 ノーヴィスはレオンの言葉に唇を引き結び、しっかりと頷いていた。 |