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「トール、私の可愛い天使。おまえさえ居てくれれば、おじさまは他に何もいらないんだ」 割れた声でその口は喋った。 幾重にも他の電波が混じり合ったその音は、酷く耳障りで聞き取りにくい。 意識を閉じた亮の真上で、バイオレットは刻々とその形を変貌させていく。 室内は完全に現実とは乖離した空間になりはてていた。 まず天井がない。見上げれば上空は満天の星空だ。 深い濃紺色の空間一面に、世界中の細かな宝石まで全てを悪戯にまき散らしたような空は、それ自体が淡い輝きを放っている。 壁もほぼ消失していた。唯一残されているのは廊下へと続く玄関の扉とそれを取り囲む一部分のみだ。 さらに、部屋の周囲は大きく、緩やかに波打つ紺とスカイブルーの海原が丸くドーム状に覆っている。 巨大な津波に取り囲まれたような部屋は不安定きわまりない状況で、水に似たその物質がさわさわと寄せては返し、時には淡い燐光を放って渦を巻く。 ピカピカに磨き上げられた水晶の如き床とそれと一体化してしまった天蓋付きのベッド。 それらだけが手に触れられる『物』としてそこには存在していた。 ブラッドリキッド摂取による亮のゲボとしての暴走が、異界そのものをこちら側に引き寄せていた。 ここはまさに異界と現実の狭間の空間である。 バイオレットは今、亮をその身に抱くベッドに融合し、天蓋から長い身体を垂らして力を失った亮の身体を抱きしめていた。 蛇腹の如き胴体は白くぬめりを帯びている。 白い長衣がその身体に張り付き、皮膚となっているのだ。 環形類に似たバイオレットの動きに合わせ、じっとりと湿った身体はみちみちと音を立て、艶やかに星明かりを反射させている。 IICR司法局局長の肉体は、既に異界へと取り込まれつつあった。 しかし彼にはそれが心地よかった。 亮への絶対の愛欲が、異界の神々との完全なシンクロを彼にもたらしていたからだ。 亮を永遠に抱きしめたまま、異界へ落ちていくのは最上の喜びであった。 「トール――、愛しているよ」 長く伸びきった胴体で亮の全身を絡め取りながら、瞳を閉じた亮を真上から見下ろし、赤黒い舌をぞろりと伸ばす。 その胴体に負けじと伸ばされる舌は異様に長く、全体に細かな繊毛が蠢いていた。 透明で粘りのある唾液がとろとろと亮の白い頬に落ちていく。 ――ぴちゃり。 その先触れに続き、生暖かく、赤黒い内臓そのものの舌が愛しげに亮の白い頬を舐めあげていた。 しかし亮の瞳は閉じられたまま、ぴくりとも反応を返さない。 ノーヴィスを失った亮はその衝撃で空間を崩壊させ、そのまま意識を失っていた。 シャルルのブラッドリキッドが亮の中でどんな作用を及ぼしているのか、バイオレットには知るよしもなかったが、もう亮の真実の名を知ることすらどうでも良い気分だった。 なぜなら、自分は完全に亮を己のものにすることが出来た――そう感じるからだ。 神々と融合し亮と共に異界に落ちるということは、彼の中でそういう意味を持つものと理解されていた。 微かに亮の胸が上下に動いているのを確認すると、バイオレットは満足そうに喉を鳴らす。 亮が生きてそこにあればそれでいい。 バイオレットは両腕で亮の身体をさらに強く抱きしめると、ぬめる舌を少年の小さな唇に差し込み、深く重ねていった。 シドは一人延々と続く廊下を走り続ける。 これ以上進めば、下への階段を確保することができなくなる。その為、ガーネットはエレベーターホールに残り、下へ力を注ぐと共に、亮の部屋への道を安定させることに全力を傾けることになったのだ。 明かりが落とされ青い間接照明のみに照らされた深夜の廊下は、一見いつものセブンスと変わりがないように見える。 一階のあの有様がまるで悪夢の中の出来事だったのではと疑うほど、平静な状況はしかし、表面上だけのことだとシドにもすぐにわかった。 走っても走っても一向に突き当たりの扉へたどり着かないのだ。 エレベーターホールから部屋までの廊下の長さはおよそ十メートル強であるはずだ。 しかしすでにシドは数百メートルの道のりを走り続けている。 もし今ガーネットが空間をつなぎ止めておく作業をやめたとしたら、間違いなくシドはこの不安定な世界へ投げ出され、下の世界へ戻ることは出来ないだろう。 不安がないわけではなかった。 ガーネットがシドや亮を疎んじていることはわかっているからだ。 だが今は彼女を信じるしかない。 ゲボのカラークラウンとして、セブンスを守る役目を全うしようとする彼女の姿勢にかけるしかない。 ――亮。 シドの焦る気持ちに応えるかのように、徐々に小さな扉が近づいてくる。 遙か向こうにぽつんと現われたドアは、しかし、次の瞬間時間を飛び越えたかのように、シドの眼前五十センチの位置にそびえていた。 「っ――!」 急停止をかけたシドの視線は、僅かに開けられた扉の隙間に向けられる。 黒いコートを羽織った長身が膝を折ると、扉の隙間に挟まるように身体を投げ出した、一人の男の身体を抱き起こしていた。 ぐっしょりと黒く濡れた亜麻色のカーペットの原因が、男の身体からのものであるとすぐにわかる。 執事の黒いベストも白いシャツも同じ液体で濡れそぼり、その手の先からぽたぽたと生暖かい赤がこぼれ落ちていたからだ。 「――っ、ごほっ……」 青年は咳き込むと、ぼんやりとした視線をシドへと向ける。 どうやらまだ息があるらしかった。 その身体を廊下側へ引き出そうとしたシドの手を、彼は震える手で制すると首を振る。 「いけ、ません。このまま――、に、してください。扉が閉じて、しまう――」 青年の瞳はそこでやっとシドの顔へ焦点を結んでいた。 それと同時に僅かに驚いた表情を見せ、次に心から嬉しそうに微笑む。 その笑みの意味がわからず眉を寄せたシドへ、青年は言葉を続けた。 「ヴェル、ミリオ様、ですね? 亮、さま、が、お待ちです。――早く、行って、差し上げて、…ください」 「わかった――」 シドはそっとその身体を扉の間に残したままカーペットの上に横たえると、大きく扉を開ける。 そこで初めてシドは執事の言葉の意味を知る。 ――扉の先はこの世ならざる水壁のプラネタリウム。 清涼な空気と星のまき散らす光が、シドの前面を吹きすぎていく。 ――そうか。 この青年の身体がここにあるおかげで、扉はかろうじてこの世界に繋がっているのだ。 床に這いずった血の跡が見える。 青年はこの扉を残すために、必死にここまで移動してきたのだとわかった。 「亮は必ず連れて帰る。それまでそこで休んでいろ」 前を向いたままそう言い放ったシドへ、執事は小さな声で答えるとゆっくりと目を閉じる。 「亮さまを、お願いします。亮、さま、を――とう、きょう、へ……。――良かった。……、よか、た・・・」 その言葉を背に、シドは水晶の床を踏みしめ、一歩を踏み出す。 数メートル先の巨大な水晶の塊。 その透ける中心に抱かれ、目指す少年の姿があった。 |