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IICR医療棟―― その中でも理事会の承認を得た者しか足を踏み入れられない四階に、特別看護室がある。 セブンスでの大事故発生の後、亮の身柄は秘密裏に集中治療室へ運ばれ、その後、様態の安定を見てこの部屋へ移されていた。 ゲボ種居住棟――セブンスが完全崩壊し、三日が経過する。 未だ本部内は事後処理で繁雑を極め、落ち着きを取り戻してはいない。 「まだ目、覚まさないの?」 心配そうというより不機嫌さを露わにし、形の良い唇を尖らせて、シャルルは亮のベッドを覗き込んだ。 白で統一された十畳ほどの広さの病室は、南に大きな窓が取られ、そこから眩しい陽光が差し込んでいる。 少し大きめのベッドはその中央に置かれ、カーテンで和らげられた日だまりの中、真新しいシーツに包まれた少年が、すやすやと寝息を立てている。 上掛けの上に出された右腕は肘を伸ばすため板で固定され、栄養剤を含んだ点滴がゆっくりと落とされていた。 枕元のパイプ椅子に腰を下ろしたシドは、亮がここへ移されてから丸二日。まるで彫像にでもなってしまったかのように、その場を動こうとしない。 ベッドへ腕を置き、何の表情もなく亮を見下ろしたまま、シドの一日は終わる。 だがしかし、IICRを追われた身分である彼がここに居ることについて、とがめ立てする者は誰もいなかった。 崩壊し消えていくセブンスの中から亮とノーヴィスの身体を抱え、ガーネットと共に脱出を果たした彼の存在を知るのはあの場に居合わせたごく一部の人間だけだ。 その場の整理に当たっていたシュラ。怪我人を運び出すことに尽力していたレオン。そしてシャルルと皓竜。 混乱を極めたあの現場で、シドをはっきりと確認した人間はその程度だろう。 亮の治療に当たったベルカーノ・プラムや医療チームの幾人かにはビアンコ直々に口外無用のお達しがあったらしい。 IICRのトップには何か考えがあるようであった。 「ね。身体の方は大分回復してるんでしょ?」 「――ああ」 シャルルの問いに対するシドの答えはこれだけである。 いつも通りの無愛想に戻ってしまったシドに、シャルルは思い切り不満顔だ。 あのセブンスの中での優しさはどうしちゃったんだと、顔を両手でサンドして、そのまま頬をむにーっと引っ張り伸ばしてやりたい。 「シド。ちゃんと朝食取った? もしかして夕べも寝てないんじゃないの?」 一応問いかけてはみたが、朝食も睡眠も取っていないことは明らかだ。 セブンスの中で再会したときには気づかなかったが、今のシドは数ヶ月前日本で出会ったときとは比べものにならないくらい、殺伐とした顔をしていた。 顔の輪郭はさらにシャープに肉をそぎ落とされ、髪も無造作に伸びている。 暗く座りきった琥珀の目は危険な光を内に宿し、気の弱い者ならば視線を合わせただけで即死しそうだ。 何より全身から立ち上る険のある空気が、半径五メートル以内に入って来た奴は殺す――と大声で叫びまくっているようである。 こんな余裕のないシドを見たのは初めてだと、シャルルは息を吐く。 「後で食う。今はいらん」 「後でって、やっぱり食べてないんじゃないか。シドまで倒れちゃったらどうするんだよ!」 腰に手を当て眉根を寄せたシャルルは、心底怒ったように言葉を荒げた。 「この程度は何の問題もない。それよりおまえ、飽きもせず毎日こんな所へ来てガーネットに小言を言われるんじゃないか?」 シドはちらりと視線だけ流して横に立つシャルルを見上げる。 シャルルはこの部屋に来てようやく自分に向けられた視線の手抜き感に、不服満点だ。 「平気だよ。ガーネットは事後処理と新しいセブンスの建設の事で忙しくて、僕たちなんかに構ってる余裕ないし」 シャルルは事件後毎日亮の病室へ顔を出している。 普段ならこんな真似は許されないのだが、現在セブンスは立ち入り禁止になっており、七人のゲボ達は臨時に医療棟三階の個別病室へ宿泊という形を取っている。 医療棟も一部専用施設を除き、全館に入獄抑制のシールド処理が施されているため、ゲボにとっては安心できる居住空間となっているようだ。 そのおかげで、シャルルはお目付役のライス執事長の目を盗んではエレベーターを使い、気軽に四階へ足を運ぶことができているのである。 「亮くん、具合はどうかな? まだお目覚めしないかなぁ」 密閉性の高い空圧式のドアを開けて、レオンが顔を覗かせていた。 ガラガラと医療機器の乗ったカートを押して現われた彼は、シドとは逆側のベッド脇へ回り込むと亮の顔を覗き込んだ。 「どんな具合? 全然変化はない?」 付きっきりのシドへそう問いかけると、シドは小さく首を振るだけで返事をする。 レオンはため息を吐くと、亮の腕に血圧測定用の布を巻き付け始める。 「血液検査の結果、出たよ。正直驚いた」 そこで一度言葉を句切ると、レオンはシドの横で腕を組んだまま立ちつくすシャルルへと目を向けていた。 「亮くんの血液から、シャルルのものと同型のゲボ因子が見つかってる。これ、どういうことだかわかる?」 思わぬ所で自分の名を呼ばれ、シャルルは血圧測定を始めた医師の顔を見返した。 「結果だけ早く言え」 刺々しい物言いでシドが先を促す。 それを気にすることもなく、レオンは言葉をつなぐ。 「ブラッドリキッドだよ。シャルルの血から精製されたブラッドリキッドを亮くんは摂取させられた可能性がある」 シドもシャルルもレオンの一言に凍り付く。 ゲボが他のゲボのブラッドリキッドを身体に取り込んで、生きていられるはずがない。 しかしリアルにあれほど大きく影響を及ぼす異界を引き寄せた事態を鑑みれば、この検査結果は合点がいくとも言えた。 GMD摂取での暴走の比ではないあの事故の原因がブラッドリキッドだったとすれば、能力的に規模のサイズは揃ってくる。 黙り込んでしまった二人の気持ちを感じ取り、取り繕うようにレオンは続けていた。 「いやでも、真相はわからないんだ。何しろ亮くんはまだ目を覚まさないし、唯一事情を知っていそうなノーヴィスは――もう……いないしね」 シドが医療棟へ担ぎ込んだ時点で、既にノーヴィスの命はその全てを燃やし尽くした後であった。 大量の出血とそれに伴うショック症状が直接の死因であるが、シドの話によればこんな状態で床を這って扉までたどり着き、その上そこを守り続けていたというのだから驚きを隠せない。 亮を守る――その一念だけが、限界を超えた彼の身体を動かし続けたのだろうとレオンはそう思った。 「そんなの――、そんなのおかしいよ! 僕のブラッドリキッドを亮が飲んだとして、なんでこの子、生きてるの!? 検査ミスだよ。まさか同じ注射器使い回してるんじゃないだろうねっ!?」 「ええっ!? や、あの、それは、ないよ。多分」 「多分っ!? 多分ってなに!」 あらぬ疑いを職場に掛けられて、レオンはおろおろとするばかりだ。 何しろ彼にも「こういう理由でこういう結果だ」と言い切れるものが何もないのである。 答えのみ提示され、途中の式がわからない今の状況では、仕事に真面目な彼が挙動不審になってしまうのもしかたないのかもしれない。 「とっ、とにかく、今は様子を見るしかないんだ。身体中についてた擦過傷もダメージを受けた内臓も、すでにほとんど回復してる。スティールにされた足の爪だけはまだもう少し時間が掛かるかも知れないけど、バイタルは安定してるし、目を覚ましさえしてくれればほぼ問題ないんだけど――」 「なんだ。はっきり言ったらどうだ」 シドは言葉を濁すレオンの様子を感じ取ると先を促していた。 「うん――……、ブラッドリキッドを使われていた場合、もしかしたらアルマに傷がついた可能性もある。肉体でなく直接アルマに働きかける薬だからね、あれは。もしそうだった場合、どんな症状が起こるのか、私には予想が出来ない。――もしかしたらこのまま眠り続けることも……」 「――そんなの、僕、許さないよ。この僕がわざわざ助けに行ってやったのに、目も覚まさないなんて、失礼だよっ」 強い言葉を使っているのに、シャルルの声は弱々しい。 それはずいぶん前からシャルルも感じていたことなのかもしれない。 だからこうして毎日様子を見に来ていたのだ。 もしかしたら、このまま目を覚まさないのかもしれない。 そうすれば、シドは自分の方へ振り向いてくれるかもしれない。 そうも思った。 だがシャルルはなぜかちっとも心が弾まなかった。 それどころか、そのことを考えるだけでぐるぐると憂鬱の塊がお腹の中で暴れ回る。そのせいで、医療棟まで皓竜を呼びつけて、まるで執事のようにあれやこれや使い走りをさせたりもしたのだ。 事後処理で大忙しの武力局トップは、睡眠時間を全て返上し、仕事とシャルルの両立を涙ぐましくこなしていたようだ。 らしくなくしょんぼりと下を向き、言葉を途切れさせたシャルルに声を掛けたのは、意外なことにシドであった。 しかもその声は決して沈んだものではない。 力強く、確信に満ちて、彼はこう言い切っていた。 「亮は必ず目を覚ます。必ずだ――」 「っ、なんでそんなことわかるんだよ!」 「さあな。俺にもそれはわからん。ただ、そう思うだけだ」 その一言は、この上なく優しい響きであった。 この言葉は自分に向けられたものだけど、きっと亮を想った言葉なのだ。 シャルルは直感的にそう感じる。 「希望を持つのはいいことだけど、長期体勢で行かないと。あまり気を張り詰めすぎるとおまえの身体の方が持たない――」 言いかけたレオンの言葉が不意に途切れた。 シャルルは不審げにレオンの視線の先を追う。 そして彼と同じく、驚愕に息を詰めていた。 日だまりの中、昏々と眠り続けていた少年の瞳が今、ゆっくりと開けられていた。 |