■ 3-13 ■ |
亮の手のひらには、六本の紐が握られている。 その紐は上へ上へと伸びていき、亮の頭よりちょっと高い位置で揺れる、六色のぴかぴかな風船に繋がっていた。 あかいろ。 きいろ。 きみどりいろ。 みどりいろ。 みずいろ。 あおいろ。 どれもまあるく、艶やかに光って亮に付き従っている。 それをご機嫌な様子で見上げた亮は、次に目の前のドアをトントンと二回、ノックしていた。 「はぁーい、ちょっと待って。今開けるから」 奥から良く知る声が聞こえてくると、すぐにパタパタと大きな足音が鳴り、亮の目の前の木のドアは大きく開けられる。 亮は中を覗き込むと、少し驚いたような顔で、 「こんにちは、うさぎさん」 と言った。 背の高いピンク色のうさぎは、最初に出会った頃より随分とほっそりとしている。 亮と仲良くなって風船を一つくれる度に、うさぎの姿はどんどんと変わっていった。 今では長い足とすらりとした腕を持つ、スマートうさぎだ。 うさぎの姿が変わることについて、亮はもう慣れっこになってしまっていた。 これはうさぎの呪いが解けている証なのである。 だから亮が驚いたのは、それについてではない。 「どうしたの? うさぎさん、からだじゅうまっしろだよ?」 うさぎは、これはいつもと変わらぬ鼻先をひくひくと動かすと、長い耳をくるんと回して照れくさそうに笑った。 「こんにちは、亮くん。実は僕、今亮くんにレイのアレを作ってたんだ。ちょっと失敗して、さっき小麦粉を頭から被ったせいで、今日の僕は白うさぎになっちゃった」 うさぎは言いながら耳をぱたぱたと動かし、両手で全身を払う。小麦粉の煙がマンガのようにもわもわと上がり、玄関から風に乗って流れていく。 亮はそれをおもしろそうに眺めながら、慣れた調子でうさぎの家に入り込み、キッチンのテーブルの上に置かれたあるものを発見すると目を丸くする。 それは香ばしくて甘くてうっとりするような良い匂いをたてていた。 「わぁ! すごい!」 亮は思わず歓声を上げる。 きつね色に焼き上げられた大きな大きなタルト地。 車のタイヤよりもっと大きい生地である。 そこにバニラビーンズたっぷりの、ひよこ色のカスタードクリームが入れられている。 「今、クリームを詰めてる最中だったんだ。亮くんはカスタードクリームと生クリーム、どっちが好き?」 うさぎはパタパタと大きな靴を鳴らしてテーブルのそばに戻ると、再び忙しくクリームを詰め始める。 手にしたへらでひよこ色のクリームを均しているうさぎの横に、亮は瞳をキラキラさせながら寄り添っていた。 テーブルの上には他に、真っ赤なイチゴやもも、ブルーベリーにラズベリー、甘く煮た栗やリンゴが溢れんばかりに籠に盛られ、所狭しと並べられている。 その中には、以前亮がすっかり食べてしまったあの大粒サクランボの姿も見受けられた。 「あ! サクランボだ!」 背伸びをしてテーブルを覗き込んだ亮は、嬉しそうにぱっと笑顔を零す。 「僕、亮くんのためにがんばって探してきたんだよ。前のよりもっと甘くて大きくておいしいサクランボ。偉い?」 得意げにヒゲを持ち上げてみせるうさぎに、亮は「えらいえらい」と言いながら手を伸ばし、オーバーオールから覗くふさふさの背中を撫でてやった。 ほんの少しだけ残っていた小麦粉がぱらぱらと床に零れる。 うさぎは亮の手の動きにうっとりと耳を垂れ、いつものように身体を左右に揺らした。 「ねー、亮くん。じゃ、今度こそ僕にチューしてくれる?」 背の高いうさぎはクリームのたっぷり付いたゴムべらを手にしたまま、隣で見上げる小さな亮を見下ろす。 ビー玉みたいに大きなアメジストの瞳が、期待にきらきらと光っていた。 しかし亮はそんなうさぎを見上げると、困ったように首を傾げる。 「うーんと……、うさぎさんはえらいけど、とおる、ちゅはしちゃだめなの。ごめんね?」 「え〜、そんなのないよ、亮くん。僕、すごくすごくがんばったんだよ? 山を三つも越えて、谷を三つも越えて、川だって八つも渡って、やっとそのサクランボを見つけてきたのに、それでもだめなの?」 うさぎはぷうっと頬を膨らませてみせると、次にがっくりと肩を落としていた。 亮はそんなうさぎの様子に、困ったように眉根を寄せる。 「ごめんね、うさぎさん。とおるがちゅ、すると、シィもシャルとちゅしちゃうから、だめなの」 「またシィ?」 亮の言葉に、うさぎはますます情けない顔になってしゃがみ込んでいた。 「亮くんはいっつもそうなんだ。いつだって、シィが、シィがって――。そのシィのどこがそんなに好きだってのさ!」 うさぎは拗ねたような口調で、立ちつくす亮の顔を見上げる。 亮はそんなうさぎの膝元にいつものように座ると、オーバーオールから覗くうさぎの胸元を撫でてやりながら、うさぎの質問に答えることにした。 シドのどこが好きなのか、一生懸命考える。 あまりに好きなことが多すぎて何から答えていいのかわからなかったが、とにかくうさぎの機嫌を直してあげなくてはいけない。 亮はとりあえず思いつくシドの好きなところを片っ端から言っていくことにした。 「シィはね、すごく大っきくて、つよくて、かっこいいの!」 「それって、怪獣みたいってこと? そんなのより僕の方がかっこいいよ! 耳だって長いし、遠くまでジャンプできるし」 「ちがうの! かいじゅうじゃなくてね、んと……。かみがトマトよりスイカよりまっかでキラキラのサラサラで、すごくきれいでね。えいがとか、テレビとかの人より、かおもかっこいいの!」 「僕だって、呪いさえ解ければ、かっこいいに決まってるんだ! だって僕、うさぎの国の王子なんだから。――もう長い間元の顔見てないから、ちょっとどんなだったか覚えてないけど、きっとシィよりカッコイイよっ」 うさぎは負けずに力説し、真っ白なヒゲをぴくぴくと動かしてみせる。 「そっ、それに、シィはやさしいもん」 「僕だって優しいよ!」 「いつも、とおるといっしょにねてくれるし」 「僕だって、いつも亮くんをなでなでしてあげてるよ?」 「えっと、ごはんいっしょにたべてくれるし」 「僕なんて、いつも亮くんにお菓子作ってあげてるじゃない」 「えっと、えっと、とおるがこわい夢みたら、シィはパセリのおうたうたってくれるもん」 「――っ!!」 突然うさぎは驚いたように息を詰めると、次の瞬間、横を向いてブハーッと派手に吹いていた。 何が起こったのかわからずきょとんとする亮を膝の上に抱えたまま、うさぎは何かを堪えるように顔を逸らしたまま、ピクピクと身体を震わせている。 「っ、ぉぅた……、シドが、ぅたぁ?――、それはすごい……」 亮にほとんど聞こえない小声で、うさぎはなにやらぶつぶつと呟き、必死に身体を震わせていた。 「うさぎさん?」 「っ、ぁ、ああ、ごめんごめん。とっ、亮くんのシィがあんまり素敵だから、ちょっと絶望的な気分になっちゃったんだ」 「ぜつぼうてき? それ、なぁに?」 横を向いていたうさぎが視線を亮に戻す。 心なしか大きな瞳に涙がにじんでいる。 亮はうさぎが泣いてしまうほど何か大きなショックを感じたのだろうと思った。 「どんなに僕が亮くんを好きでも、亮くんは僕のことなんか好きになってくれないってこと。亮くんはシィと仲良しで両想い。でも僕は亮くんに片想い。これって、すごく絶望的なことだよ」 「……。ちが、よ。とおるも、かたおもいだもん。とおるはシィがだいすき。でも、シィはとおるのこと、すきちがうの。だから、とおるも、ぜつぼーてきだよ?」 うさぎの解説を聞き、亮がふと視線を下げる。 うさぎは亮の言っている意味がわからず、長い耳を揺らして首を傾げた。 「シィは亮くんのこと、好きじゃないの?」 亮はしばらくの間俯いていたが、ぽつりと言葉を零す。 「シィは、とおるのことみると、いっつも泣きそうなかお、するよ? いっつもかなしそうなかおになって、なにか、いっしょうけんめい、がまんしてるの。だから、きっと、とおるはかたおもいなんだ」 顔を上げた亮は、ふわりと笑って見せた。 うさぎは大きなアメジストの瞳でそれを見つめると、大きく息を吐き、そっと抱きしめる。 「――それはお互い、絶望的だね」 耳の後ろで囁かれたその声が、いつものうさぎと少し違って聞こえ、亮は顔を上げていた。 しかしすぐそばで見下ろすうさぎの顔は、いつも通りふさふさの毛に覆われた、愛らしいうさぎそのものである。 「それって哀しいよね? 亮くん、おムネの辺りがぎゅーって苦しくなるよね?」 「……うん」 「でも、シィがちゅってしてくれたら、少し良くなるでしょ?」 「……うん、よくなる」 「僕も同じ症状なんだ。だから亮くんがちゅってしてくれたら、きっと良くなる。それなのに、亮くんは僕が苦しんでても助けてくれないの?」 「――それは、とおる、たすけてあげたいよ。うさぎさん、だいすきだもん。でも、シィが」 「あいたたたた……、おムネが苦しくなってきたぁっ。も、もう、だめだぁっ……。助けて、亮くんっ!」 今度はうさぎは情けない声を上げると、苦しげに顔をしかめ、身体をくの字に折り曲げていた。 亮はその様子に慌てると、自分に覆い被さるように苦悶するうさぎの胸を一生懸命にさすってやる。 「うさぎさん、しっかりして! とおる、おいしゃさん、よんでくるよ! しっかりして!」 亮はもう泣きそうだ。 このままでは、亮も良く知るあの苦しい胸の痛みで、大好きなうさぎが死んでしまう! 「お医者さんじゃ、治らないよ。亮くん、お願いだ。僕を助けて。哀れなうさぎを、亮くんのキスで救ってあげて! ああ、もう――、目の前が暗くなってきたよ……」 「う、うさぎさあああんっ! やだっ、死んじゃ、やだあっ!!」 力なく耳を垂れたうさぎの体重がずっしりと亮の肩口に掛かり、つぶらなビー玉の瞳が閉じられていく。 亮はショックで目を見開き、大粒の涙をこぼしながら、倒れかかってくるうさぎの身体を揺する。 しかしうさぎは電池の切れたロボットのように、ばったりと床の上に倒れ込んでしまっていた。 「うさぎ、さん?」 仰向けに倒れたうさぎはぴくりとも動かない。 亮は信じられないといった表情でにじり寄ると、大きなうさぎの身体に覆い被さるようにして、ぐったりとしたうさぎを見下ろしていた。 これは緊急事態だ。 シドがシャルと仲良くするのがイヤだとか、そういうレベルの話ではない。 うさぎを助けなくてはいけない。 今、うさぎを助けられるのは亮だけなのだ。 「うさぎ、さん。死なないで? 目、開けて?」 亮は意を決したようにコクリと息をのみ、次にゆっくりとかがみ込んでいく。 チューをする。 それが、うさぎを助けられるただ一つの方法なのだ。 固く引き結んだ小さな唇が、うさぎのふさふさと短い毛の生えた口元へそっと当てられる。 亮はシドとの約束を破り、うさぎへキスをしていた。 |