■ 3-17 ■


 一階駐車場口から往来へ飛び出すと、亮は風船の姿を追って周囲を見回した。
 午後の喧噪の中、白い姿はすぐ見つかる。
 それは意外にも近く、まるで亮を待っていたかのように道の反対側でふわふわと浮いていた。
 ジャンプすれば亮でも手に届きそうな低い位置で、往来の人々の頭上に白く輝いている。
 その姿を追い、亮は車道へと飛び出す。
 普段は交通量の多いその道に、不思議なことに今は奇跡的な空間が出来ていた。
 亮が難なく道を渡りきった瞬間、車道の川は再び流れを取り戻す。
 しかしそれに注視するものは誰もおらず、亮もそのことに全く気づかない。
 ただ少年は、目の前へ浮かぶ風船へ手を伸ばし、それを捕らえようと素足のままジャンプを繰り返す。
 しかし風船の白い紐は亮の指先数センチの位置で再び揺れ始め、ふわふわと横へ移動を開始していた。
 風船はまた車道へと向かっていく。
「――まって」
 人々の間を抜け亮は走り出し、何度となく指先は空を切るが亮はあきらめない。
 歩道から車道へ風船が出て行こうとする瞬間、亮の小さな手はついに風船の紐の端を捕まえていた。
 亮の顔にぱっと笑顔が灯る。
 その刹那――。
 亮の身体が突然大きな力で前方へ引き込まれる。
「っ!?」
 明るかった亮の視界が一気に暗くかげった。
 投げ出される身体は何者かに抱き留められ、背後では扉を閉じる大きな音が響く。
 何が起こったのかわからずもがく亮を、抱き留めた人間が押さえ込む。
 首にのばされた大きな手が、シドとお揃いのネックブレスをあっという間に外し、窓の外へ投げ捨てていた。
 金属の輪がチャリンと音を立てるのが、遠くに聞こえる。
「早く出ろ」
 その人間が低い声でそう告げると、エンジン音が亮の身体の下で響き渡り、移動の開始を告げるGが亮を革張りのシートへと軽く押しつける。 
 混乱し顔を上げた亮は、横目に見える窓の外を流れていく景色に驚いたように小さく声を上げていた。いつの間にか自分は車の後部座席に乗せられ、走り出していたのだ。
 そしてさっき確かにつかんだと思った紐の感触を探して、手のひらを見つめた。
 しかし紐などどこにもない。
 あのうさぎの白い風船は、亮の手の中にはなかった。
 代わりに――
「お久しぶりです、亮さん――」
 聞き覚えのある声がした。
 黒いシートへと自分を押さえつけていた人間が身体を上げると、亮の視界に一人の男の姿が映る。
 きっちり着こなされた黒いスーツ。
 きっちりなでつけられた髪。
 酷薄そうな光を宿した眼鏡の奥の眼光。
 何度も亮の身体を舐め回した薄い唇と紅い舌。
「――っ」
 亮は出す声もなく凍り付いていた。
 亮はこの男を知っている。
 この男を覚えている。
「苦労しましたよ。あなたともう一度会うことがこんなに難しいとは思いもしなかった」
 そう言って男はちろりと舌なめずりをすると、青ざめた亮の頬へ手を掛ける。
 神経質な指先が、柔らかな亮の肌の感触を確かめるように頬をなぞり、耳朶をなぞり、首筋へ掛かっていく。
 亮はその感触に次第にガクガクと震え始め、追い詰められた子ネズミのように荒い呼吸で目を見開いた。
 瞬きすら出来ない。
「ああ――、少し合わない間に、随分と色が白くなられましたね。本部では可愛がっていただけましたか? ふふ――、この滝沢が教えて差し上げたこと、役に立ったでしょう?」
「っ、ぁ、ぁ、っ、ぁ、ぁ――、」
「だから亮さん。今度はあなたが滝沢の役に立ってもらわなくては。あなたの力、お貸し願えますか。代わりに――」
 滝沢は薄い唇をぎゅうっと引き上げると優しく亮を抱きしめ、亮の柔らかな髪の中に言葉を埋める。
「また色々と楽しいことを滝沢が教えて差し上げますよ」
「ぃ、ぃゃあああああああっ!!!!!」
 亮の口から壊れたような叫びが迸った。
 それと同時に両手両足をばたつかせて、精一杯に暴れる。
 しかし今の亮では滝沢の顔にひっかき傷一つつけることはできない。あっという間に押さえ込まれ、広い後部シートへ組み敷かれてしまう。
「っ、ひっ、ひっ、ぃゃ、やぁっ! シィっ、シィっ! こわ、こわぃ、よぉ、シィっ!!」
 何度も首を振り、大きな瞳いっぱいに涙を溜め必死に助けを呼ぶが、亮を乗せた車はスピードを上げ、ぐんぐんと事務所を離れていく。
「そんなに怯えないでもらえますか。――興奮して商品を傷つけてしまいそうだ」
 心底愁いたような表情だが、滝沢の声は震えていた。
 言葉通りに滝沢の性的興奮は振り切れるほど高まっていた。亮を幼い頃からそういう視線で見ていた彼にとって、今の亮は過去、もぎたくてももげなかった未知の甘い果実だ。
 不可能だと思っていた過去の幼気な亮を、今、味わうことが出来る。
「ぁ、ぁ、ゃ、ゃめて、たきざ、きらい、ゃぁっ、」
 怯えきった亮は泣きながら声を絞り出し、恐怖で縮こまった手足で力ない抵抗を繰り返す。
 そんな亮を見下ろし、滝沢の呼吸は上がり、ひくひくと目の下の筋肉は痙攣した。
 片手で己のネクタイを緩めると、もう片方の手で乱暴に亮のシャツをボタンを飛ばして引きちぎる。
 恐怖で固まる亮の身体に滝沢は覆い被さっていった。





 滝沢の舌が震える亮の頬をべろりと舐め、その手が素肌に剥いた亮の下肢へと掛かったときである。
 不意に携帯電話のコール音が車内に鳴り響いていた。
 動きを停止し一拍呼吸を置いた滝沢が、舌打ちしつつスーツの懐から携帯を取り出す。
「っ、何だ――」
 いらだちを隠そうともせず電話に出た滝沢の耳に、今回の仕事のパートナーであるIICR所属研究員の声が飛び込んできた。
『トオル=ナリサカの身柄確保はできましたか? ミスター滝沢』
「ああ、問題ない。あのコーレイという老人が売り込んできたとおり、指定の位置に亮は現われ、わざわざ私たちの車の扉まで近づいてきてくれた」
『怪我や衰弱などしていないでしょうね?』
「大丈夫だ、ミスターガードナー。いらぬ心配などしていないで、あんたは計画通りゲボの研究・搾取の準備を進めておいてくれ。――話はそれだけか? それならもう」
『――随分急いていらっしゃるご様子ですね。もう一度念を押させていただきますが、トオルの身柄は完全な形での引き渡しをお願いしますよ? ゲボの魔力にやられて焦った性交渉などもたれませんように』
 この場を見透かしたようなガードナーのセリフに、滝沢は不機嫌そうに唇を噛む。
 その沈黙をどう受け取ったか、ガードナーはこう続けていた。
『焦らずともこちらに到着次第、セラ内であなたにトオルの教育をお願いしてあるのですから――。セラ内でのゲボの味はリアルの比ではありませんよ、ミスター』
「……わかっている。しかしあんたは本当に亮さんを研究したくてたまらんのだな。もちろんそれが我々の重要な資金源になることも事実なのだが、こんな確認電話までしてくるとは――」
『彼は貴重なゲボですから。――それも、他に類を見ない変わり種の優良種だ。私でなくとも、ソムニア研究をするものなら誰でも喉から手が出るほど欲しい素材です。彼の持つ性的吸引力という極一部の能力にだけ捕らわれるのは愚かなことだと思いますよ。……もっともあなたはトオルがゲボとして覚醒する以前から彼の魅力に捕らわれていたようなので、これには当たらないかも知れませんが』
 ガードナーの言葉に滝沢は自嘲気味に鼻で笑うと、了解した旨をもう一度告げ、電話を切っていた。
 視線を落とすと、怯え震える亮が涙に濡れた零れそうな瞳でこちらを見つめている。半裸にされた白い肌は寒さと恐怖で青ざめ、粟を吹いていた。
 滝沢は脱がしかけた亮の衣服をなおすと、ボタンの飛んだシャツの上から己のスーツのジャケットをかけてやる。
「残念ですが亮さん、楽しいお勉強は後でということになりました。セラ内ならば時間は無限にあります。滝沢の言葉があなたの全てになるまで、じっくり教育してあげますよ」
 骨張った指先が震える亮の唇をなぞり、亮はびくりと身体を竦め悲鳴を飲み込んだ。
 数十分後、ようやく車は目的地を見つけたらしく、郊外の廃工場跡の敷地へとカーブを切っていった。