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夕方五時を回り亮が部屋へ帰宅すると、久我の姿はなく、代わりにバスルームから水音が聞こえている。 すぐにでも風呂に入って汚れた身体をさっぱりさせたい衝動に駆られていた亮は、ルームメイトの間の悪さに少々ムッとしながら、バスルームを乱暴にノックした。 「いつまで入ってんだよっ、さっさと出ろー」 「あぁ? 風呂は早いもん勝ちって部屋ルールだろうが」 「うっせ、オレは今すぐシャワー浴びたいんだっ」 「じゃ、入って来いよ。俺は一向にかまわんぜ?」 顔は見えないが、その声だけで久我がニヤニヤ嫌みな笑いを浮かべていることが亮の目にはまざまざと映る。 「ば……、ばかじゃねーのっ? 気色わりぃこと言うなよ! 変態か!?」 「ひひひひ……」 否定も肯定もせず癇に障る笑い声だけが返される。 この不毛な交渉に諦めを付け、亮はしぶしぶ扉を離れると、肩掛けカバンを自分のベッドへ放り投げていた。続いて手にしたプリン入りビニール袋を丁重に冷蔵庫の奥へとしまい込む。 と――背後に感じるただならぬ気配。 「!?」 振り返ったときには時遅し。全身ずぶ濡れにタオル一ちょの久我が、抱きついてくる瞬間であった。 「なりさか〜、遠慮すんなってぇ〜」 「うわゎっ、つめてっ、なんなんだおまえ、水風呂か!? ってか……酒くせーっ!」 「おまえ帰ってくんの待ってたんだぜ? 最近いっつもいっつも佐薙とつるみやがってさぁ。言っとくとおまえの仲間は俺であって、佐薙のバカじゃねーんだからな!?」 (ほぼ)全裸のルームメイトはがっしりと亮の首根っこにしがみついたまま、頬をすり寄せてくる。 「ちょ、こら、放せっ! この酔っぱらい!」 ぐいぐい顔を押し返すが、お構いなしに上目遣いでパチパチと瞬きをし、亮を見つめてくるタチの悪い大トラ。 「そんなことより、一緒に風呂入ろ?」 「なにが「そんなことより」だ! 人が情報集めるために出かけてんのに、おまえは呑気に一人で酒盛りかよ」 「バカ言うな。俺だって情報収集のために仕方なく酒の力を借りたにすぎねーの。お陰で今日は麗ちゃんからけっこういい情報ゲットできたんだぜ?」 「……そう、なのか」 「それに比べておまえときたら、ボランティア部に入って一週間、毎日毎日佐薙とイチャイチャ校内清掃に励みやがってよぉ。たまには俺とも親睦を深めたってバチはあたんないだろぉ?」 「オレだって好きで掃除ばっかやってるわけじゃねーんだよ。東雲先輩がそう言うんだからしょうがないだろ? だいたいなんだよイチャイチャって。アホか」 覚めた視線で今度こそ久我を突き放すと、亮は自分の領地であるベッドへと戻っていく。 「アホって……ひどい」 いじけた様子で落ちかかる腰のタオルを引き上げる久我。 それぞれの領地には許可がない限り入らないのは暗黙の部屋ルールである。 「酔っぱらってなんでもアリになりやがって、アホ。オレが出てくるまでに水でもがぶ飲みして、まともに戻ってろよ! アホ!」 着替えを抱えバスルームに入ると勢いよく亮は扉を閉じていた。同時にガチャリ――と鍵が下ろされる。 「鍵かけちゃうのかよぉ……」 久我はその背を見送り、唇をとがらせた。 「なるほどねぇ、東雲先輩にそんな秘密があったとは」 久我は難しい顔でうなずくと、手にしたプリンをもう一口ほおばる。 「……おまえ、何勝手にオレのプリン食ってんの?」 シャワーでさっぱりし終わった亮は、バスルームから出るなり、開口一番文句を言った。 「は? だって二個あるってことは、一個は俺用ってことだろ」 「なんでそーなるんだよっ」 「まぁまぁ。しかし、おまえの使えるおじさんは、相変わらず使えるおじさんだなぁ。食いもんだけじゃなく情報まで提供してくれるとは」 「ん……、まぁ、な……」 目の前でなくなっていくプリンに釈然としないものを感じつつも、久我の悪びれない態度に亮はこれ以上言う気も失せ、髪を拭き拭きベッドへと座る。 「俺も東雲先輩がこの学校の経営者一族だってことくらいは知ってたんだが、そんなゴタゴタがあったとは知らなかった。つまりは現総理事長の有清は、どさくさでこの学校の経営権かすめ取ったようなもんじゃねーか。たとえまだ年齢的に若すぎるとはいえ、東雲浬生がそんなヤツの下で唯々諾々と従ってるタマかね?」 「オレもそう思う。あの何企んでんだかわかんない性格の上にアンズーツのソムニアなんだろ? 普通だったら能力使ってでも有清理事を排除にかかるんじゃねーのかな」 「けどそうはしてねぇ。しかも東雲はどうやら理事長に、援交組織の売上金まで上納してるらしいからな。となると、ボランティア部の目的が益々わからん。援交組織なんていう汚れ役を押しつけられ、自分の地位財産を奪ったヤツに金を納めるなんて……どう考えてもありえねぇ」 難しい顔のままカップの底をさらう久我は、完全にもう酔いが覚めているようである。 「そうなると、東雲先輩はやらされてる……ってより、やりたくてやってるってことなのかもしれないな。……セラで会ったとき、あの人すごい楽しそうだったからさ」 「援交組織の一番上は学校そのものじゃなくて――東雲先輩個人なんじゃないかって成坂は考えてるってことか……」 亮がこくりとうなずく。 「それにもし学校側が何かやらかしてるんだとしても、これとは別の案件じゃないかと思うんだ」 「別の? 援交組織以外にも何かソムニア事件が発生してるってのか?」 「いや、その……そういうわけじゃないんだけど……」 言いかけて亮は口ごもっていた。 ボランティア部に入部して一週間経つが、シドからも秋人からも何らお叱りの言葉はない。 ということは、シドたちが調べているのはボランティア部ではないということで、きっともっと別の大きな事件を追っている可能性が高いと亮は推測したのだ。 しかしそれを久我に発表すれば、シド達が関わっているであろう事件の方に興味を持たれないとも限らない。 そうなればシド達に今回の亮たちの行動を知られることになり、二人だけで捜査なんてことは完全に不可能になってしまうだろう。 「なんだ? ごにょごにょと」 訝しげに久我が顔を上げる。 「バカだなぁ久我! ソムニア事件がそうそう被るわけねーじゃん! べ、別の案件ってのは、よくわかんねーけど、一般人としての金絡みのインボーとかそういう感じじゃねーかなっ」 「わ、わかったよ。何ムキになってんだ、おまえ」 勢い込んで声を裏返しながら主張する亮の様子にタジタジとなりながら、久我は目を丸くしプリンのカップをゴミ箱へと放り投げる。 「そっ、それで、久我がゲットしたっていう情報は何なんだ?」 「あ、あぁ……」 釈然としない表情ながらも、久我は本日女子との酒盛りでゲットしてきた情報を披露しにかかる。 「明後日の創立記念日、午前中は式典があるだろ? んで午後から通常生徒はお休みになるんだが……一部ボランティア部のみなさんだけは地元の方々との親睦会があるらしいんだ。おまえ、何か聞いてない?」 「……いや、なんも」 亮が命じられているのはひたすら佐薙との校内清掃のみである。 「なんで部員のおまえに知らされずに、俺が情報探り当ててんだよ。成坂おまえ東雲先輩に信用されてないんじゃね?」 「……う」 亮としても薄々感じていたことではあるが、こう久我に言われてしまうと身も蓋もない。 「とにかくそこへどうにか潜り込めねーかな。夏休みに入る前に核心に迫っておきたいしさ……」 「明後日かぁ。……急だけどなんとか明日、東雲先輩にカマかけて掛け合ってみるしかねーな」 「まずは証拠が必要なんだ。IICRへ通報する為の条件として、リアルとセラ、両方からの物的証拠が必要になる。写真や動画、不法利益の帳簿みたいなのが押さえられればかなり心強い。あとは洗脳行為の実態と組織のシステムをある程度まで解明して、その中心人物を空間錠でとっつかまえる」 「うへー。漠然と考えてたけど、いざやるとなるとしなきゃなんないこといっぱいだな」 「何しろ手配書が回ってる事件じゃないからな。どうしても一から十まで自分たちで立証しなきゃいけねーとこが面倒なんだ。……だけどその分実入りはいいぜ? おまけに名も売れる」 「名前かぁ……。オレはそういうの面倒だからパス。おまえ一人で捕まえたってことにしてくれよ」 「なんだぁ? 欲のねー野郎だな。遠慮することじゃねーぜ? 名前が売れれば実入りのいい仕事だって舞い込んで来るってのに……」 「いいから、それだけは約束して欲しい。ホント、IICRとか絶対近づきたくねーから、オレ」 真剣な亮の声に久我は片眉を上げうなずく。 「……おまえがそういうならそうするけどよ。確かにIICRの独裁体制を嫌ってるヤツはいっぱいいるしな」 「もちろんその分、お金の分け前増やしてくれてもかまわないけど」 「なにぃ!? そこはしっかりしてんな。……くそっ、考えとくわ」 仏頂面の久我に、亮は満足げにうなずく。 「そんじゃオレは、明後日の親睦会に潜り込んで、客から金の流れやシステムなんかを聞き出せばいいってことなのか」 「ああ。生徒も客も外部へ情報を漏らすなとインプットされてて、ソムニアの俺でも情報を聞き出すのに限界がある。だが内部の人間へ喋るなという指令はされてないはずだからな。おまえが行けば彼らの知る最大限の情報を引き出せる可能性が高い」 「なるほどなぁ……」 「あとは俺もバックアップについて、写真や動画の撮影を決行するつもりだ」 「えええええっ、写真撮るのかよ。オレの顔とか絶対写すなよ!」 途端に不機嫌に唇を尖らせる亮。 「わかったよ。後からモザイクかけて消してやるよ」 「モザイクぅ!? 消すならまるっと全部消せよ! モザイクなんかで消されたら、オレそのものがエロ部分みたいじゃんかよっ!!」 「……エロそのものじゃん。全身モザイク処理しないと映倫が許さないレベルじゃん」 何言ってんの?――と言わんばかりの表情で驚いてみせる久我に、亮は大激怒である。 「っ!? てめ、この、死なすっ!!」 瞬間的に――ベッドから飛び上がるとソムニアならではの運動能力で、久我の頭上からフライングアタックをしかけていく。 「うわわっ、おいこら落ち着けっ! ぐぼっ!!」 慌ててそれをかわそうとするが、久我の顎へ亮のラリアットが綺麗にヒット。派手に吹き飛ばされ壁へ激突する178p、59s。 壁から掛け時計とカレンダーが落下し、ついでにパラパラと壁の一部が剥がれ落ちる。 『やかましーぞ、205号!』 ドンッ――と壁が鳴り、響き渡ったのはお隣の先輩の怒号。 「す、すいませーん!」 床の上にへたり込んだまま掠れ声で謝る久我に対し、亮は怒り芬々で腕組み仁王立ちだ。 「オ・レ・の・ど・こ・が・モザイクレベルだって!?」 「・・・・・・。し……失言でした、成坂さん」 ぐっと睨み下ろすその妙な迫力に、久我は震えながら何度も謝るしかない。 「モ、モザイクを掛けるべきは俺の汚れた心でした。わ、分け前も成坂さん6分、久我4分でけっこうです」 「・・・・・・よし」 ようやく納得したように、鼻息も荒く亮はうなずき、久我は泣きそうな顔で顎をさするのだった。 「……いいなぁ、楽しそうだなぁ……」 パソコン前の座卓に座り、耳に付けたイヤホンをいじりながら、秋人がしみじみ感じ入ったように呟く。 その耳には205号室での会話がまるでFMラジオの如く明瞭にステレオで届けられていた。 「僕も、海千山千のスレた赤毛の暴君となんかじゃなくて、初々しい亮くんと青春しながらキャッキャウフフなスパイ大作戦したいよなぁ……」 シドから亮のお目付役の許可をもらった秋人は、あの日以来全ての亮の行動に目を光らせている。 今のところ、かの事務所アルバイトくんは、シドたちの追う本筋の案件に首を突っ込む気配はないようだ。 それは安心できる情報であると同時に、秋人にとって至極の娯楽が継続されるお知らせであるとも言えた。 「僕だって亮くんたちとは十歳しか違わないんだし、まだまだ青春出来る年齢だと思うんだけどなぁ……」 と、二十六歳、若干とうの立った高校生志望者は鼻息も荒く呟く。 しかし羨ましがってばかりもいられない。 「さて……、明後日の創立記念日親睦会か。シドパパは亮くんをどんな気持ちで行かせるのやら――」 もう一つ別の楽しみを見付けた秋人は、少々意地悪な微笑を浮かべ、シドへ定期連絡のコールをかける。 「……あれ? そう言えば亮くんにおじさんなんかいたっけか? ……亮くんの家族ってお兄さんの修司さんと、折り合いの悪い継父さんとの二人だけのはずなんだけど……。プリン作りが上手なパン屋で古本屋のおじさんって…………だれ?」 そこまできてようやく一番不可解な点に気付いた『S&Cソムニアサービス頭脳労働担当者』は、五分後電話で怒られる羽目になるのであった。しかもこの年になって泣くほど壮絶に。 腹に響く重低音のエグゾーストノートが店先で止まると、一気に辺りの気温が低下し始める。 木枠にガラス製の店舗扉が開かれた瞬間、雨森は用意しておいた綿入り袢纏を羽織る。 客の来店を告げる電子チャイムが呑気な音楽を奏でる中、朱い来訪者は全身から煮えたぎる殺気を迸らせ、さらに奥の居住用ガラス戸を勢いよく開けていた。 「やだなぁ。いくらなんでも早すぎるでしょ、さっきの今だってのに……っ、ぐぇっ!」 靴のまま上がり込んだ朱い来訪者は瞬きする隙すら与えず雨森の首根っこをつかむと、そのままちゃぶ台の上に、彼の鬱蒼とした頭を叩き付ける。 分厚い樫板からえげつない音が上がり、夕食後のお茶を楽しんでいた雨森は正座したままの体勢で土下座の格好だ。一筋の紅が雨森の額から滑り落ちてくる。 「この甘ったるい匂い……。ブリーズを使ったな、糞が」 室内に漂う昼間の残り香に、シドは眉間に深く溝を刻んだ。 チリチリという甲高い音色に先導され、尖った冷気に部屋中のガラスにひびが入っていく。 「っつ〜……、こんなに早くばれるなら、さっき最後までいただいちゃっとけば良かったなぁ。これじゃ何のために我慢したんだか……」 「なにが我慢だ。何度食った。その回数殺してやる」 感情のまるで感じられない淡々としたシドの声は低く、雨森はぞくりと背筋を凍らせる。 「ぅ、嬉しい申し出だけど、僕もまだお仕事が残ってるんだ。亮くんはアルマも肉体も、味見程度で」 「……味見、だと?」 「っ!! いや、いやいや食ってない。とにかくいただいてませんっ! 亮くん本人に聞いてみてよ」 「ブリーズを使えば亮の記憶消去くらい造作もないだろうが」 「は? あんなにマーキングしといて、それを言う? 記憶はともかく身体の方は僕の力じゃ痕跡消せないってわかってんだろ!? 殺すならちゃんとあの子の身体確かめてからにしてくれよ」 「……」 「僕は一ミリだって亮くんを傷つけたりしていない。むしろお前が邪険にして傷ついてる亮くんを痴漢から守ってあげたりお弁当で慰めてあげたり、礼を言ってもらいたいくらいだって」 「ご託はいい。……とにかく二度と亮に近づくな。次はない」 ギリギリと雨森の首筋に爪が食い込む。凍傷寸前の冷えた肌に、熱く広がる鋭い痛み――。雨森はその感触にうっとりとまぶたを震わせ、ゆるりと己の唇を舐めた。 「ぁ……、っ……、まずい、なぁ……。お仕事、残ってるのに……、殺されたく……なっちゃう……じゃ、なぃ……」 正座だった足はぺたんと崩れ、腰が震える。着流しの着物の下で、雨森のものはこれまでにないほど怒張し脈打っていた。 「ねぇ……、あの頃みたいに僕の顔にズタ袋掛けて揺すってよ。この姿じゃ燃えないってんなら、セラでお前好みの美少年時代に戻ってあげてもいいし。そのまま犯し殺してくれれば、もう二度と亮くんには……近づかないからさ……」 濃く熱い白息を吐きながら雨森がシドの顔を眺め上げる。が、その瞬間さらに強い力で首の骨を握り込められる。 「っぎっ!!」 雨森――ローチの視線が強力な武器であることをシドは熟知している。さらにもう一方の手で黒く生い茂った髪をつかむと、シドはローチの額をちゃぶ台へごりりと押しつけた。 「何世紀前の話をしている」 ビクンとローチの身体が震えた。 「それって僕はもう用済みってこと? 精処理役としても? っ、ぁ……、ゃば……、僕が用済みで無意味で邪魔者でしかないなんて……、はぁ……っ、ィきそぅ……、」 うっとりと曇った眼で宙を眺めていたローチの指先が、快感を探るようにちゃぶ台の上を滑り、倒れた湯飲みからこぼれ出たお茶溜まりへと触れる。 そして次の瞬間――、濡れたローチの手がシドの腕をつかんだ。 「っ!」 瞬時にシドはそれを打ち払うと飛び退り距離を取る。 ローチにつかまれ濡れた手首から、度数百のアルコールのごとく凄まじい浸潤速度で、ピンク色の幸福が染みこんでくる。 「ちっ……」 しかしシドは顔色一つ変えず腕を一振りすると、ローチをにらみ据えた。 純白の輝きがさらさらとその手首から散っていく。 「……せっかくの幸せ入り玉露をフリーズドライで乾燥させちゃうなんて、無粋だなぁ」 ゆらりと立上がるローチはひびの入ったメガネを掛け直す。額から鼻の横へ一筋の血潮がぬるぬると垂れ落ちていた。 「……殺して貰おうかと思ったけど、やめた」 「……」 「……イきそうって言ったけど、ホントはその前にもうイっちゃってたんだ。お陰で今は賢者タイムってやつ? 冷静さを取り戻した僕は、可愛い部下達を見捨てない頼れるリーダーだからね」 にっこりと微笑んだローチの和服には、いつの間にか股間の辺りに微妙な翳りが生まれている。 「でも……おまえの言葉責め、相変わらず最高」 「ローチ。何が目的で俺の周りをうろつく。また亮を売りにでも来たか……」 「いやいやいや、早とちりしないでよ。学校に入り込んだのは別件だって! 亮くんは可愛い顔して近づいて来たから、ちょっと撫で撫でしただけで……」 「……ならばその別件とやらはなんだ。パプティズムプロジェクトにおまえも噛んでいるということか」 「それも違う。僕はシドの仕事の邪魔もするつもりはないし。今までおまえが僕の存在に気付かなかったってのは、僕がソムニア洗礼薬精製計画の中枢に関わってないことの証明だ。違うかい?」 「……」 「僕が狙ってるのはその過程で生まれた副生産物の方。――疑似ソムニア薬。あれ、なかなか便利そうだからさ。シドがIICRから請け負ったのは中心メンバーの全員捕獲とソムニア洗礼薬実験のデータ押収でしょ? 副産物まではその範疇じゃない」 「おまえ……プロジェクトのメインセラについて何かつかんでいるのか?」 「残念ながらそこはガードが堅くて」 ローチは肩をすくめる。 「それができてたらとっとと必要なデータ奪って仕事終わってるよ。だからおまえとのギブアンドテイク的な取引材料になる情報は持ってない」 「……ふん、本当に役立たずで邪魔者なだけだな」 「まぁこの件に関しては否定しないよ」 懐から出した手ぬぐいで額の傷を拭きながら、苦笑を浮かべる。周囲の空気が冷え切っているせいか、ぱっくりと開いた意外と大きな傷の割には、出血が少ないようだ。 「……あーあ。それにしても亮くんには可哀想なことしたな。バレなきゃ、もうちょっと学校生活を楽しめたのにね。代わりに謝っておいて」 「……亮はこのまま学校へ通わせる」 「……は?」 ローチは目を見開き、旧知の顔を眺め上げた。 今この男が言った言葉の意味が理解できない。 「おまえ、正気? それともそんなクソ真顔のまま冗談でも言ったのか? この僕があの子に関わったんだよ? 危ないとか危険とかヤバイとか、そんな風に思わないわけ? それともまた昔みたいに、『汚れモノはポイ捨て病』が出たのかよ」 「くだらん病名をつけるな。そんな癖は昔から持ち合わせていない」 「よく言うよ……。じゃあなんでこの状況であの子を放し飼いなんだ。僕ん所に来たのも、お前のものを盗ろうとした僕を殺しに来ただけで、汚されちゃった亮くん自体にもうは興味なくなったってそういうことなんじゃないの?」 「亮への興味など関係ない。ここに来たのはあいつを安全に学校へ通わせる為だけだ。それ以上でも以下でもない」 「っ……、なんだそれ」 にこやかだったローチの眼が暗く細められる。 「前にも言っただろ? そんなに大事な宝物なら、檻に入れて誰にも見られないように閉じこめておけって。呑気に外飼いなんかしてると、事故に遭ったりどこぞの野良猫に孕まされたり――悲劇的なアクシデントがつきものになるもんだよ?」 「亮は一代限りのニンゲンではなく、ソムニアだ。これから延々と転生を繰り返していく。今世限り閉じこめたとしても、次は無理だ。ゲボとイザでは転生周期も違う。いつまでも俺が傍にいてやれるわけじゃない」 「できなくはないさ。僕の持ってる『絶縁裂地――インシュラ』の例の部屋、覚えてるでしょ。ほら、僕らの逢い引き用だったスイートルームだよ。……あそこ、使わせてあげてもいいけど? インシュラ系の特種セラなら、肉体が死んでもアルマを閉じこめておける。永遠に二人の世界だ。――特に僕の部屋の絶縁状態は完璧だしね。肉体からのセラ探索もできないほど、密閉性は折り紙付き。……ほら、1700年代に酒場でケンカしてお前が閉じこめたなんとかいう錬金術師、世間では行方不明のまま、まだあの部屋で元気に壁とおしゃべりしてるくらいだから」 「……誰だ、それは。知らん」 「……300年以上放置プレーの挙げ句知らんって、さすがシド。酷い。酷すぎる……」 「インシュラなどに用はない。今の亮にはこの世界に、つながり続けるべき者達がたくさんいるんだ。俺の勝手に出来る問題ではない」 「うわ……他人の感傷を尊重するために自分が面倒を請け負うって? シドの癖に? いよいよおかしくなっちゃってるぞ、これは。……まさか本当にあの子のこと、愛しちゃったってか? シドの癖に? シドの癖に愛!? うわ、うわ、うわゎ……」 「くだらん。俺の用は済んだ。貴様と雑談する趣味はない」 シドは疲れたように腕を振るとローチに背を向ける。 「それならなおさら素直になりなって。ホントは面倒すっ飛ばして、あの子を永遠にしまっておきたんだろ。顔に書いてあるよ?」 「……おまえの仕事は見逃してやる。勝手にしろ。だが亮へは近づくな。今度手を出そうとすれば」 「おっ。……また、犯り殺しプレーしてくれんの?」 「寂静してやる」 「…………。」 ローチは笑顔のままフリーズ。 「…………プレーの為とはいえ……、さすがに、世界から消えるのはまだ……未練があるなぁ」 「亮に触るつもりなら遺書を忘れるな。お前の組織で後継者争いが起きても俺は知らんからな」 こいつ完全に本気だ――。 畳に靴跡を残して立ち去っていく英会話講師の背中から物騒なオーラがビシビシ放出されているのを、出入りのパン業者は痛いほどに感じ取ってていた。 |