■ 5-1 ■ |
------------------------------------------------------------------------------ なぁ、シド。 オレはこれからもずっと、あの頃みたいな日が続いていくんだと思ってたんだ。 だから毎日普通に過ごしてたし、おまえと喧嘩して口きかない日もあった。 けどさ。今思うともったいなかったな。 今のオレなら、一秒だって瞬きしないで世界を見て、 息をするよりいっぱいおまえと話すよ。 願うことはいっぱいあるけど。──でももう時間みたいだ。 ------------------------------------------------------------------------------ 季節は深秋。 あれだけ粘りに粘った夏の熱気も街路を抜ける木枯らしに全て吹き散らされ、残照さえ早々に引き上げてしまう頃。 成坂亮は正直かなり浮かない顔で、薄紫に染まる夕暮れの街をペダル踏み踏み疾走していた。 まだ夕方5時過ぎだというのに景色はもう夜のそれで、道を流れていく車のテールランプがやたら赤く光って見える。 寒さにぶるりと身震いするとマフラーに顎先を埋め、冷える指先を何度かグーパー握りつつハンドルをつかみ直す。すぐ近所だからとナメないで、手袋してくれば良かったと後悔してみたが今更取りに戻る気にもなれない。 「なんでオレが行かなきゃなんないかなぁ……」 金曜のこの時刻帰宅の途につく歩行者も多く、道交法に倣って車道へ降りて走ってみるが、今度は行き交う車に邪魔にされ亮の機嫌はますます悪化していく。 そもそも亮がこんなお使いに向かわされる原因となった電話が事務所に入ったのはほんの数分前のこと。 電話を取ったのは学校から帰ったばかりの亮だった。なんと相手は地元の警察署。 思ってもみない相手にびっくりした亮はすぐさま秋人に取り次いだのだが、端末前でシドのバックアップに忙しい秋人は、話半分にふんふん相づちを打っただけで電話を切り、何事かと見守っていた亮に向かってこう言った。 「亮くん、行ってきて」 状況がまったくつかめていない亮は、何度か瞬きした後、「どこへ?」「何しに?」「オレが?」と基本的な三つの問いを投げかけてみたのだが、どうやら仕事が佳境を迎えているらしい秋人は、「うん、そうだね、交番、よろしく」という、圧倒的に薄っぺらい情報しか返してくれなかった。 たった一つよこされた「交番」という情報さえも、どこの交番なのか定かではない。 しかし秋人はそれ以上こちらを見るそぶりもなく、あきらめた亮は勝手に一番近くにある坂の下の交番を想定して、こうやって自転車で旅立ったというわけである。 自転車で10分弱という短時間で着くその交番へ向かうのはそれほど大した仕事ではないが、行き先が違った場合再び秋人に連絡を取り別の目的地へ向かわねばならない。たぶんそのさい電話をすれば、理不尽な社長ならではの塩対応であしらわれることになるだろう。 最近はシドに大きな仕事が入っているらしく、バイトとしての亮の立場はどうにもおざなりに扱われているきらいがある。 壬沙子もIICRへしばらく帰っているせいで、事務方とバックアップの全部を秋人がこなさねばならず、それがかなり大変なことなのだと亮にも分かってはいるのだが、それにしてももう少しちゃんとした指示くらい出してくれてもいいんじゃないかと唇を尖らせてしまう。 「そもそも、交番で何があんだよ。あっ。印鑑とかそういうのいらないのかな……」 交番に一般市民が何しに行くのかあまりピンと来ていない亮は、公的機関=印鑑、という謎の公式を頭に思い浮かべ、ポケットの中に小銭入れと携帯しか入っていなかったことに若干の不安を覚える。 そうこう思い悩んでいる内に、坂道による重力と亮の脚力による二重奏で、亮の乗る自転車はあっという間に目的の交番前へ到着していた。 商店街の入り口あたりにこぢんまりと建つその交番前でブレーキを掛けると、自転車にまたがったままおそるおそる中をのぞき込んでみる。 この季節寒いせいか入り口のドアは開いておらず、明かりのついたその場所をガラス窓からきょときょと見回していると──突然、がらりと扉が開いた。 扉向こうには誰もいなかったはずだ。自動ドアなのか!? と、一瞬身をすくめのけぞりそうになった亮の足下へ小さな何かが飛びついてきたのは次の瞬間だった。 「Hey,honey! I Missed you,亮!」 甲高い声とともに自転車ごと押し倒さんばかりの勢いでタックルを仕掛けてきたのは。 「き……キース……さんっ!?」 遅ればせながら「さん」をつけたのは、そう言えばこの小さな子供が自分より──いや、シドよりも年上だと思い出したからで、しかしそれを思い出したからと言って完全に大人への対応にも戻れず、亮は混乱した頭のままどうにか自転車ごと転がるのをふんばり、体勢を立て直すと自転車から飛び降りる。 とたんに亮の足にぎゅっとしがみつき、四歳児らしく甘えたそぶりでほおずりするキースに、どうしたものかと思いつつもついつい頭を撫でてしまうのは、亮の高校生らしい反応だ。 「キースさんがなんでここに? てか、また迷子──ですか?」 「No, no──。違うよ。今度は『補導』だ」 「……補導?」 「補導というか、保護というかね」 聞き返した亮に答えたのは目の前の四歳児ではなく、背後に現れた年若い巡査であった。 「キミ、この子のご家族? 親戚? お知り合い?」 困ったようにぽりぽり頭を掻いて現れた巡査は、亮の頭から足先まで眺め、どうにもこの子供と同じ人種でないと判断したのかいくつか言葉を選び直し、しかし例えそのどれに属していようが、すぐさまこれを引き取って欲しいと言わんばかりの悲しい視線で、しょぼしょぼと瞬きを繰り返す。 「ダメだよ、こんな小さな子をこんな暗くなって一人歩きさせちゃ」 「は、え、はぁ……」 「もうホントこちらも困っちゃってね。この子、自分はソーニャだかソムニだかで大丈夫だとか……よくわからないことばかり言うし、住所だとか名前だとか聞いたら英語で説明し始めるしで──もう何言ってるのかさっぱりで。唯一聞き取れたのが、キミのところのなんとかサービスの電話番号だったんだよね」 「……そう、ですか」 キースはこの警官にソムニアについての話が通じないと判断するやいなや、自分が「外国人の子供である」という武器を使って相手を翻弄し丸め込んだことは想像に難くない。 きっと彼相手にまくしたてていた会話も、全く意味をなさないどうでもいい世間話だったんだろうと思うと、同じ経験を持つ亮は気の毒でならなかった。 「良かったね、僕。お兄ちゃんが迎えに来てくれて。もう一人でお外をお散歩するのはダメだよ?」 しゃがみ込んだ巡査がそれでも警官らしくキースの頭を撫でると、キースはにっこり微笑んで 「おう、悪かったな、あんちゃん。ま、アンタの職務根性はすばらしいよ。しっかり励みな」 サムズアップをしてスタスタと先を歩き始める。 目を見開きそれを眺める巡査に、「すいませんでした。ありがとうございました」と礼を言い、亮は慌ててその後を追った。 自転車を押しつつちらりと振り返ってみれば、若い巡査は同じ姿勢で固まったまま、呆然とこちらを見送っている。 きっと今日の夜はオヤジの顔した子供が英語でやたらまくしたててくる怖い夢を見るに違いない。──と思うと、亮はますます彼が気の毒になってしまった。 しかし巡査への同情もすぐにかき消える事態が亮を待っていた。 自転車に二人乗りという訳にもいかず、歩いてキースを連れ帰らねばならない亮は安全面を考えて商店街のある裏通りを帰路に選んだのだが── 「亮ちゃん、事務所、どっちだ? 向こう側か?」 「キースさん、待ってください、ちょっと、歩道ちゃんと歩いて」 「おい、コロッケ買ってくれ。あれ、うまそうだ」 「え? 今? ちょ、あ、すいません、じゃ、一つ──」 「おねぇちゃん、二個くれ、二個。こっちの坊主にも一つ食わしてやってくれ」 「別にオレは……、あ、はい、160円、じゃ、200円から──、と、ちょっとキースさん、先に行かないでよ! コロッケは!?」 とにかく大変だった。 両手に熱々のコロッケを持ったまま、器用に自転車のハンドルを支えて歩く亮は、とても四歳とは思えない足取りのキースを追い気疲れでへろへろだ。 商店街の中とはいえ、やはり車は通るし、キースの小さな身体はともすれば視界から消えてしまう。 中身はおじさんで、身ごなしも亮など足元にも及ばないIICRの猛者なのだから心配することなど何もないとは分かっているのだが、それでもついハラハラ目で追ってしまうのは亮の一般人としてのどうしようもない習性だ。 すっかり暗くなった周囲は街灯と店舗の明かりでふんわりと光って見える。10月も終わりに近づくと街はすっかりハロウィンムードに包まれ、商店街を彩る電飾も華やかに、楽しげなお化けたちのモニュメントがそこかしこに飾られて賑やかだ。故に薄墨の空が闇夜に塗り込められ始めたこの時間ではあるが通りの明かりは十分で、キースの興味があちこちする分大変ではあるけれど、この道を選んだのは正解だったと亮は自分自身ほめてやりたい気分になった。 キースの小さな身体を追いかけながら、片手に持ったコロッケを一口、さくりとかじる。 ほくほくのジャガ芋とほんの少しのミンチ肉が亮の口の中で甘く踊り、香ばしい匂いが鼻の中を抜けていく。 「あ、うま」 口元からフーフーと湯気の立つ息を吐きながら、亮がそう呟いたとき。 ふと、二本向こうの街灯の下に、一人の人間が立っているのを見つける。 いや、夕食前のこの時刻、商店街の通りにはたくさんの人が行き交っているので、街灯の下に誰かが立っていようと当たり前のことであるはずなのだが、その人影は妙に亮の意識に引っかかったらしい。まるで、写真の中に絵が切り貼りされているような不思議な異質感を覚え、思わず目をこらす。 その街灯の下は少し、薄暗く陰って見えた。 見えた──というのは、光量自体は他の街灯と大差ないように思えたからだ。だが、明らかにその下は暗い。 亮はコロッケの甘みをごくりと飲み込み、そして、ドキリ──と、心臓が凍り付く。 (……な、に?) 自転車を押しながら歩いていた亮の足が止まる。声も出ず、ただ目を見開く。 その人影は少年だった。白いダッフルコートを着て、老人のような白い髪をしていた。 白い髪をしているが、どうしても彼は少年だった。 しかしそれすら感覚的にそう感じただけで、目で見えた故の判断ではない。 目で確認できなかったのは──、彼の、その少年の、顔も、手も、無造作に巻かれた包帯によってほぼ隠されていたからだ。 片方の目は白い眼帯をしていて、残った目が一つ。唯一はっきりと青く、亮を見つめている。 そう、──相手も亮を見つめていたのだ。 「っ──!?」 ぎくんと亮の身体がこわばり、つるりと手が滑った。 コロッケを二つ手にしたまま、ハンドルが手のひらをすり抜け、自転車が傾いていく。 倒れる! と思った瞬間、何者かの手が亮の足をぽんと叩いていた。 「おい、大丈夫かい、嬢ちゃん」 倒れるはずの自転車は目の前に立つキースが片手で軽々と支え、灰汁色をした瞳が心配そうにこちらを見上げている。 「……っ、え、あ……」 その存在になぜかホッとし、再び前へ視線を向けてみるが──件の少年はもうどこにもいない。 「キースさん……、今、そこ、いた子、どこへ行ったんだろ……」 「あ? そこ? あのマダムか? それともそのサラリーマン……」 「違う、そうじゃなくて、白い髪の毛で包帯だらけで片眼の男の子がじっとこっち見てて……」 「ほわっ、No, Drop it! ……亮ちゃん、おどかしっこなしだぜ!? そんなヤツどこにもいねぇよっ。急にどうした!? コロッケ買わせた復讐か!? おっちゃん怖い話苦手なんだよ」 「そ、そっちこそ脅かすなよっ! いただろ!? 確かにいたって! きっとそこの通りの影に入ってっちゃって……」 「いいや、俺だって嬢ちゃんよりは十分経験豊富なソムニアだ。そんな怪しいヤツが居たら見逃すはずねぇ」 「いや、でも……絶対いた……ような、たぶん、いたような……」 カラークラウンの副官を務めたほどの男にそう言い切られてしまうと、亮の自信は急に揺らぎ始める。 自分は白昼夢でも見ていたのか、それとも明かりの加減が枯れ尾花を幽霊にでも見せたのか──。 考えてみれば現実味の欠片もない光景だった。 頭の心がぼんやりと痺れているような不快さにとらわれ、亮はぎゅっと目を閉じ頭を振ってみる。 「ほら見ろ。キングにこき使われすぎて疲れてんだよ、亮ちゃんは。俺にも覚えがある。精神的疲労ってやつだ。──帰ったらおっちゃんとお風呂にでも入ってまったりしよう、な?」 ぼんやり突っ立つ亮の手から自分の分のコロッケを取ると、残った手を亮の背後に回して二三度動かし、うんうんと頷いた後キースはスタスタと歩き始める。 「わっ、ちょ、尻揉むなっ、変態おやじ!」 「Ha, ha, ha, ha! ボキまだ4ちゃいでちゅー」 「…………タチ悪ぃ」 げっそりとした表情で亮は揉まれた尻をさすり、コロッケをかじりながら後に続く。 先ほど白い人影の居た街灯の横を通り過ぎた瞬間、それでもちらりとそちらを見やる。 だが、そこにはもう誰もいない。 ただ街路樹が夜の木枯らしに吹かれ、ざわざわと揺れるばかりだ。 「疲れてんのかな……、やっぱ」 亮はそう声に出し自ら確認してみることで、ふっと息を吐き、小走りにキースの横へ並んだ。 デスクでモニターを眺めながら口を閉ざしている男は、だがせわしなく指先だけは踊らせていた。 今現在、シド・クライヴが潜行しているセラでのサポートを彼はつとめている。それはとても重要な仕事だ。 それを十二分に理解しているキースであったが、彼も子供の使いでこのような極東くんだりまで来たわけではない。言わねばならないことは先ほど簡単な挨拶をすませた後、二人きりになるのを見計らって、眼前にいるかの有名な入獄システム考案者にして現シド・クライヴのパートナー、渋谷秋人へ告げている。 キースの幼い容姿に目を丸くしていた彼は、その言葉を聞きにわかに表情を引き締めた。 そして「その件はまた後ほど。しばらくそちらでくつろいでいてください」と言ったきり、今の状況だ。 回線を通じてキングとつながっているであろう彼は彼のパートナーに、今自分がやってきた事態を伝えたのだろうか。 キースをここへ連れてきた明神亮という少年は、到着してすぐキースへ暖かなミルクを出し、自主練があるとかで左手扉から地下にあるらしいシールドルームへ降りてしまっている。 あの少年にキースがここへ来た理由を話して聞かせるにはまだ早い。 きっと彼も、渋谷秋人同様──いや、それ以上に、キースがここへ来た目的に対し反発する感情を抱くであろうことはわかっていた。 「ミルクよりコーヒーが良かったんだがな」 たっぷりとハチミツを溶かされたホットミルクは甘くイガイガとキースの喉を刺激した。 それにしても──と、キースは思う。 本当に彼が、一年前、セブンスで起きたあの重大な事故を起こしたという八番目のゲボなのだろうか。 あの何も知らない無垢な少年の顔を思い出すと、そんな魔性のゲボとは思えない。 そう。キースが聞かされた真相の影にいたのはまさに人外としか言いようのない存在であったから。 当時、どうしてセブンス棟が壊滅的な被害を受けたのか。研究局のトップであるスティールが蒸散刑という極刑に処せられ、武力局長ライラック、セブンス責任者ガーネットを始め片手に余る人数の者たちが転生刑を執行されたのか、まるで正しい情報が入ってはこなかった。また裁判局の長ヴァイオレットがスティールの蒸散刑執行という特別な晩に、なぜかセブンスに居あわせ、かの事故に巻き込まれ完全に消息を絶ってしまったことについても、真相は藪の中だ。 一年前のあの季節、IICR本部は四名もの要職に就くカラークラウンを一気に失い、混迷の時代に突入した。 十二度の転生を果たしてきたキースも、第二次大戦以降、これほど大幅なクラウン交代劇を知らない。 特にガーネットとヴァイオレットの長年にわたる功績は重く、彼らの跡を継ぐ新クラウンたちはその偉業とも言うべき前任者の実績に押しつぶされまいと、今も必死に仕事に邁進していると聞く。 ──中央であんなに一気に人が死んだんだ。戦争でもおっ始まったかと思ったね、俺は。 しかし実際あのときIICR職員に回ってきた情報は『セブンス内で事故が起こり、ゲボが一人消失。その責任を取る形での関係者の刑執行である』という短いお達しだけだった。 もちろん、ソヴィロ、ゲボ他各クラウン下のコミュニティーに属する者たちは詳細を求め声を上げたのだが、理事会がそれに応えることはなく、事故そのものについても箝口令が敷かれ、IICR内であの件に触れることは最早タブーとされている嫌いがある。 当然のことながら一介の諜報部窓際部長に過ぎないキースにも事件の真相が明かされることなどなかった──のだが。 「まさかこんな形でこんなヤサグレオヤジに情報が回ってこようとは……」 呟いてミルクをすすり、ほっと息を吐く。 現在諜報局トップであるイザ・ラシャをすっとばし、現在はクラウン補佐ですらない、惰性で仕事をこなすだけのキースへ真相が語られることになったのはほんの四日前のこと。 極東日本まで生身で仕事に行きがてら、前々からラシャより言いつかっていた「ヴェルミリオへ復帰の打診をしてきてくれ」という本気だかなんなんだかわからない任務をこなした翌日のことだった。 報告のために入獄したラシャの執務室で待っていたのは、オートゥハラ・ビアンコ──IICRのトップ。 部屋にラシャの姿はなく、仕事の報告をする代わりに、キースはそれらの秘密とそしてこれからの危機について全てを知らされたのである。 「ビアンコ様もこんなフツーのソムニアにあまり重い任務を背負わせてくれんなよなぁ」 ラシャの言っていた「ヴェルミリオ復帰」という話はビアンコ直々発令の正真正銘嘘のないものだったこと。そして、ラシャも知らない事実を知らされ、いい加減さが売りのキースでさえ、あの日から口から胃が裏返って出て来そうなプレッシャーに苛まれている。 しかもビアンコの指令によれば完全に今回、自分は憎まれ役である。 渋谷秋人からすれば、シド・クライヴという看板ソムニアを連れて行こうとする生活破壊者であるだろうし、明神亮──否、成坂亮からしてみれば、自分をぼろぼろにしたIICRから、最愛の男を奪いにきた悪魔の使者だろう。 「やんなっちゃうよなぁ……」 困り顔のままそれでもあれこれ世話を焼いてくれた少年の顔を思い出し、キースは幼い面を疲れたように曇らせた。 ──ゲボなんてガーネットみたいな海千山千の性格ねじくれたヤツしかいねぇと思ってたが。亮ちゃん、あれ絶対いい子だろ。あんな可愛いのは泣かせたくねぇなぁ……。 それでもキースはやりきらなくてはいけないのだ。 苦い溜息を誤魔化すように、甘いミルクを流し込む。 「あれっ、キースさん、まだ居たの?」 と──、勢いよく開けられた扉の音に続き、聴き知った元気のいい声が飛び込んでくる。 ぼんやり考え事をしながら飲み進めていたミルクはいつの間にか、ぬるく温度を失っており、壁に掛けられた時計の針を見ればあれから二時間弱はたっているようだった。 デスクを見やれば未だに渋谷秋人はキーを弾き続けていて、あちらは時間の経過を感じさせない。 こんな長時間潜る案件はさぞ面倒なものなのだろうと、他人の仕事ながらゲッソリとしてしまう。 「もう夜八時だよ? お腹すかない? 眠くならない?」 腰を下ろしたソファーを回り込むように寄ってきた成坂亮は、大きな眼をぱちくりさせ心配げにこちらをのぞき込んできていた。 思わずくすりと笑ってしまう。 「んー、そうだな。まだ四歳だから確かに夜は早いんだ。そろそろ眠い……かな」 そんなことは全くないのだが、キースが敢えて目をこすりぐずってみせると少年はたちまち思案顔になる。 「毛布、持ってこようか? シドが戻ってくるまで待つんだろ?」 「ソファーよりベッドがいい。ここは堅くてヤだ。亮ちゃんとこのベッド連れてってくれよ」 上目遣いで甘えた声を出せば、明らかに少年はとまどった様子でキースを見下ろし「そうだなぁ……」と口ごもる。 「亮ちゃんとこに居ても、キングが仕事終わったらわかるだろ? だったらそれでいいじゃない。ね?」 「う、うん……。いいけど……」 「じゃ……」 そう言うとキースは亮に向かいめいっぱい腕を伸ばし、「ん」となにやら催促しながら甘え顔だ。 「え? キースさん歩けるだろ?」 「眠くてダメだもうぼくあるけないからとおるおにいちゃん抱っこ」 敢えて抑揚のない調子で訴えれば、溜息混じりに細い腕が伸びてきて、キースの小さな身体を抱き上げる。 肩口に顎を乗せると、少し濡れた髪からふわりとシャンプーの匂いが鼻をくすぐり、キースはふんふんと首筋に顔をすり寄せる。どうやら入獄後、シャワーを浴びて帰るのが彼の習慣らしい。 「ちょっと、くすぐったいよ、こら」 「んん……、早く亮ちゃんのベッド行こ?」 ──おじちゃんもう我慢できないキング帰る前にちょっとだけイタズ……甘えちゃうのは四歳児的には普通の出来事であるからして。 細い首筋に鼻先をつっこめば、シャンプーではない甘い匂いが緩やかに香ってくる。 ──ふおおおぉ、なるほどぉ。なるほどなるほど、なるほどぉ。 「じゃ、秋人さん、オレ、キースさん連れて上に行ってるから」 なにやら心の中で深く納得するキースを困ったように見下ろし、抱き上げたまま歩き出した亮の背後から腕が伸びてきたのは次の瞬間だった。 何の前置きもないまま、首根っこを捕まれた小さな身体はぐいっと乱暴に持ち上げられる。 「ぐぇっ」 首元が閉まり命の危機に若干脅かされながら出されたキースの声はカエルに似ており、その後、無造作に股間を鷲掴まれ、大きな手のひらに座らされたキースの顔はムンクの叫びそのものであった。 「キース。どこへ行く? 俺を待っていたんだろう」 「っ──あ、いや、うわぁ、キング、お疲れ様……」 「シドが遅いからキースさんお眠になっちゃったみたいなんだ。で、オレんとこのベッドに行きたいって──」 「……俺はオヤジを自分のベッドへ寝かせる趣味はない。その辺のカーペットにでもくるまっていろ」 そのままぽいっと床にキースを放り捨て、汚いものでも掴んだように手を払う仕草をし、くんくんと鼻を近づける。 「おむつは取れているのか?」 「っ、だ、ちょ、キング! あったりまえだろ失礼な、覚醒しておむつしてるヤツなんて趣味でしかねぇ……って、俺は別にあんたのベッドへ行くんじゃなくてだなぁ」 言いかけてキースはようやく何かを察したように黙り込んだ。 「…………なんだ。幼児の皮を被った性犯罪者が」 床に座り込んだまま怖いものでも見る顔で仰ぎ上げるキースに、シドは表情なく唾棄するように言い捨てる。 「あ、アンタが言うか!」 「亮。おまえは先に戻ってろ。俺はこいつと話がある。夕飯は先に食べてろ」 「お、おう。なんかわかんねーけど、じゃ、キースさん、またな」 ただならぬ空気を読み取った亮は、触らぬ神になんとやら──とばかり、ヘラリと愛想笑いを浮かべて部屋を出て行く。 扉の音が静かな室内にこだまして、残されたのは浮かない顔の秋人と、氷の視線で傲然と見下ろすシド。そして、若干ちびりそうで本当におむつをしておけば良かったと思うキースの三名だけだ。 キースの未だかつてない重要任務は、果たして成功するのだろうか。 |