■ 5-102 ■



 迷いのない足取り。
 けれど存在を消そうとする呼吸音。
 ちぐはぐな存在はものの数秒で近づき、シドの横たわるベッドの真横で停止する。
 息を殺したまま覗き込む気配。
 右腕は動くか。
 己の冷え切った器官を改めて確認すると一息に動く。
 相手は成人男性だと腕を掴んだ瞬間にわかった。
 触覚で知るまでそんな簡単な情報すら手に入れられなかった自分の衰弱ぶりに危機感を覚えながら、身体の動き方の癖に任せて相手を抑え込んだ。
 反撃される隙を与えず殺す。
 得物を持っていない今の状況ならば頸椎をへし折るのが最も簡易な方法だ。
 薄暗がりの中、男の首に手を掛けた。
 ベッドサイドで何かの倒れるけたたましい金属音が発せられるが、構わず持てる力を一気に腕へ込める。

「シド! そこまでよっ!!」

 言葉より先に何者かにシドの身体は引き剥がされ、瞬時に拘束されてしまう。
 逃れようと試みるも今の萎えきった手足では如何ともしがたく、何か活路はないかと朦朧とする頭を振って状況を視界に捉える。
 白いベッド、白い天井、白いカーテン。ベッドの脇にはバイタル測定モニタと転倒した輸液スタンド。
 己を拘束しているのは乾いた鱗を持つ大蛇にも似た何かだ。
 ギリギリと締め上げる筋肉の塊のようなそれは、シドの腕から肩、胴から足先までガッチリとホールドし、足首に沿うように鎌首をもたげている。
 猊下に倒れ伏している男が咳き込みながら顔を上げた。
 男の顔を確認しシドは思わず息を詰め目を見開く。

「うちの子に何するのよバカっ」

 左手のパーテーション向こうから聞き知った調子で叱責の声が響き、ベアリングの効いた小気味良いタイヤの音と共に一人の女が現れていた。

「諒子──」

 ショートウルフにカットされた射干玉の黒髪と意志の光が宿る大きな黒い瞳。甘くふっくらした唇は艶やかに輝き、とろりと甘い顔立ちを際立たせている。
 左右の形状が完全に対称性を保った造りは非人間的な美しさがあるが、それでいて陽気で砕けた調子のある空気感はアンバランスでもあり、一目見たら男も女も目を離せなくなってしまう。
 強いゲボでありいつでも二十代半ばの容姿とスラリとした長い手足を持つ彼女はしかし、その伸びやかなはずの体躯を車いすに乗せ、低い位置からシドを見上げていた。

「修ちゃん、大丈夫!? こっちにおいで」
「いえ、平気です。母さんこそ無理はしないでください」

 修司の言葉が終わる前に諒子は微かに表情を歪めるとうつむき、大きく肩で息を繰り返す。
 同時にシドの身体は中空に投げ出されていた。
 シドを拘束していた大蛇は人には聞こえぬ咆吼を上げ、部屋全体を震わせながら天井付近に空いた巨大な穴へ尾からゆるりと這い戻っていく。
 チロチロと出される二股に割れた舌が物欲しそうに雫を垂らし、濁った複眼が車いすの上で忙しく息を吐く諒子に向けられていた。
 が──

「契約分はあげたでしょ。帰りなさい」

 ジロリと見上げる鋭い眼光に一瞬鱗を逆立てると、大蛇はすごすごと消えていく。
 室内が静寂を取り戻す頃にはシドの身体は再びベッドへと戻され、周囲にはいつだって敵わなかった良く知る人物が二人。そろって彼を見下ろしていた。

「クライヴさん、気分はどうですか? 顕現化されてから丸三日半、眠りっぱなしだったので少し心配しました」

 倒れていた輸液スタンドを起こし、再び点滴の準備を始めたのは紛れもなく亮の兄・成坂修司であった。
 IICRの訓練セラより姿を消した彼の行方を捜し続けその全てを徒労に終えていたシドにとって、目の前に当該の人物を認められたことは信じがたいことであると同時に、肩の荷が下りる安堵感をもたらしていた。
 セラからこちらへ戻される瞬間聴いた声は間違いなく彼だったのだ。
 新たな輸液針を付け替えている修司に「大丈夫だ」と声を掛けシドは身体を起こす。
 三日も寝こけていたかと悔悟の念に唇を噛み、未だ感覚の鈍い己の肉体を眺める。
 靴やコートこそ脱がされているがセラに居た頃身につけていた衣服がそのままである様子は、まさに顕現化した状態でこのリアルに自分が舞い戻ったことを表していた。
 冷静に感覚を確かめれば、全身が痺れたままであり体温調節もままならないようだ。如何に自分が肉体に無理を強いてきたのかがわかる。

「長時間肉体ごと煉獄に晒され続けたせいで、あんたの身体は休眠状態よ。
 もっとさっさと戻ってくればいいものを、グズグズ煉獄に留まったせいでひどいものだったわ。
 この大学病院で煉獄療法科の科長の座をゲットしておいたのはあんたの治療の為じゃなく、この後の計画のためだったのに──変なところで病院のって場所が役にたっちゃったじゃない。まぁ体力的な面では薬でどうこうできるものでもないから、処置としては最低限の水分補給しかしていないけど。おむつも履かせてないからトイレは自力で行ってちょうだいね」

 ズケズケと物を言う諒子だがその静かな声音は彼女の体調こそ芳しくないものであるということを伺わせているようだ。
 セラで出会ったときはいつも通りに見えた彼女だが、現実の肉体は随分と痩せているように見える。
 そして何より彼女の乗っている車いす──。
 見慣れぬ光景に眉をひそめた。
 その視線を受け、溜息交じりに諒子は続けた。

「ああ、私のこと? 必要経費で色々支払った結果よ。病気や怪我じゃない。計画通りだから心配は要らないわ」

 シドの視線から兄弟子の言わんとすることを察し、自嘲気味に諒子は肩を竦めて見せた。
 その一言で、諒子が己のゲボを限界以上に使っているとシドは悟る。
 それが如何に危険なことかわからぬ諒子ではないはずだ。
 何をしているんだと問いただそうとしたシドの疑問に答えるかのように、第三の人物が現れる。
 そう、それはまさに“現れた”というしか表現のしようのない登場であった。
 何もない空間へにじみ出す白い影。
 まるで中空に銀板写真を現像したかの如くジワリと空間に染みが出来、それが見る間に一枚の姿となってくっきりとした立体の存在になりかわる。
 白い髪、白い肌、白いダッフルコート、水色の隻眼。包帯だらけの手足と、包帯に巻かれた頭と顔。
 小柄な白い少年はベッドの上へ裸足のままふわりと降り立ち、物理的質量など一切ない身体を折ってしゃがみ込むと、まじまじとシドの顔を眺め始めた。

「──!?」

 突然のことにシドは表情もないまま彼を見返すより他ない。
 このような振る舞いが可能なソラスをシドは何体も見てきている。
 だがここはマルクト。現実世界だ。
 自由度の高いセラに居るのとは訳が違う。
 世界は古典物理の常識通りあらゆるものが質量を持っているし、その身に地球という岩石惑星の重力を受ける。
 この生体は何者で、諒子との関係はどういったものなのか。
 気を抜くと停止しようとする思考力を奮い立たせ、シドは白い少年を観察する。

「コールマシュヘリテート。突壊する物、シド・クライヴ。亮を壊すことはできなかったようだね」
「っ、俺が亮を壊すことなどあるはずが──!!」

 言いがかりにも似た言葉に、一気に苛立ちが吹き上がる。
 だが反射的に掴みかかろうとするシドの腕は空を切り、少年は微動だにせぬままシドの顔を見続ける。

「っ──!?」

 確かに何かに触れた温もりはあったはずなのだ。だが、シドの腕は擦り抜けシーツの上に振り落とされてしまう。

「私が何者か知りたいのだな? それは理解に値する」

 少年は立ち上がるとシドに対しくるりと背を向けて見せた。
 白いダッフルコートの肩甲骨に当たる部分が大きく二箇所。そしてそのしたに小さく四箇所。それぞれ乱雑にほつれている。
 ただ布地が破れているのではない。
 そこには何もない黒い穴がぽっかりと開いており、そこを覆うように白く光る糸がグシャグシャと捩れ、時折弾けるような火花を発していた。
 黒い穴の向こうは底がなくどこまでも深いようでもあり、ただ真っ黒な紙切れがぺたりと貼られているようでもあった。
 言葉の出ないシドを気にすることもなく少年は元の体制に戻ると、抑揚のない調子で語る。

「ここにあった大翼は両方ともテーヴェが持って行った」

 ゴクリとシドの喉が鳴る。

「小翼はケテルにいる兄へ送った」

 ケテル──。王冠の名を持つ生樹の最上位層のことだ。そこに“居る”兄。
 そしてここ、マルクト──。王国の名を持つ生樹の土台。そこに“居る”弟。
 シドの脳裏に一つの名が浮かぶ。
 少年は己の包帯に巻かれた左目を指さし続ける。

「ここにあった目は秀綱にあげた」

 それでもその名を持つものが現実的に存在しているのか、疑いを払拭しきれない自分がいる。

「兄は秀綱に右目をあげたと言っていたから。少しでも兄の力が保たれるために、私はあらゆる部位を兄へ送った」

「──、おまえは……サンダルフォンなのか」

 シドの口から漏れた名に少年はゆっくり一度、残った右目を瞬いた。

「そういう名もあったかも知れぬ。だが全て後付けだ」

 生樹の各セフィラに配された守護天使の内、第一層ケテルと第十層マルクトに置かれた二体は異質の経緯を持つ。
 他の八層には創造者、所謂“神”というやつが創造時自らの手で創り出した物が置かれたままなのに対し、彼ら二体は前任の二体が役目を放棄したせいで後から入れ替えられた異物であると、シドはループザシープ滞在時にヘルメス文書にて読んだことがあった。
 彼らは創造者が直接創った物でなく、マルクトで生まれた“人間”を生きたまま召し上げ流用した守護者なのである。
 つまり現実世界の肉体を持ったまま守護天使として生樹の天と地に置かれた異端の存在といえる。
 現実世界──マルクトに確かに存在しているはずなのに、誰も──ビアンコですら探し出すことが出来なかったサンダルフォン。人間名・イリヤを、テーヴェと秀綱は見つけ出し、そして今シドは妹弟子諒子によって引き逢わされている。
 俄には信じがたい現実が、今、シドの足下で此方の顔を覗き込んでいた。

「諒子、おまえのゲボは──」
「そう。私のゲボはほぼ全てイリヤにあげたの。あらゆるパーツを手放した彼は消えかけていた。それでも私の計画にイリヤは必要不可欠。彼をマルクトへつなぎ止めておくには、ゲボを使うのが最良の手だった。数学苦手な私にもわかる論理展開よ。まぁ結果、今私の持つゲボは残りかすみたいなものになっちゃったから──現状私は戦力にはならないけどね」

 ほぼ全て、と諒子は言った。
 残されているのはアルマにこびり付いて剥がれない最低限の部分のみなのだろう。
 それを使うということはアルマそのものを削っているということだ。
 使うたび、いつ寂静してもおかしくない状況だと推察できる。
 肉体すら弱り始めている彼女がしてきた旅はどのようなものだったのか。
 何も聴かずともシドには手に取るようにわかった。

「母さんは──諒子さんは亮を救う方法を探すために亮を置いて出て行ったんです。
 僕はずっと誤解していた。そして内心怒りと嫌悪までも持ってしまっていた。
 諒子さんは亮を捨てたのだと。でもそうではなかった。
 母さんは亮を助けるために出かけただけで。──そして戻ってきてくれた」

 修司は語ると下唇を噛み締め、
「それを今すぐ亮に伝えてやりたい」
 心の声が漏れ出るようにぽつりと呟く。

「私は──。私と秀綱が犯してしまった間違いを正すため、全部を投げ出した。
 この肉体もアルマも存在も時間も。
 そして、亮自身も。
 そうしなければ、いえ、そうしてさえも不可能な挑戦だとわかっていたから。ビアンコにも秀綱にも見つからずやり遂げなきゃ駄目だったから」
「あの二人を出し抜こうなど、正気の沙汰ではないぞ」

 思わず本音の漏れ出たシドへ、諒子は普段通りの悪戯な笑みを浮かべる。

「チームがようやく揃ったわ。私、修ちゃん、久我くん、秋人、イリヤ、そしてシド。
 これで計画は滑り出せる」
「計画!? そんな悠長なことを言う余裕がまだあるというのか。
 アレの中のミトラはもうはち切れんばかりだった──」
「大丈夫。この世界があるということは、ミトラはまだ解放されていないということよ」
「ですが亮は今、僕らの居る生樹の巡りの中には存在していない。消えてしまっている」

 捕捉するように呟いた修司の言葉に、シドの背がぞくりと凍り付く。

「消えている、だと? それは──ミトラごと消滅したとそういう──っ」
「落ち着いてください、クライヴさん。そうではない! 亮は確かに生きている。ただこの世界の輪の中から外れているとそう言っているだけです。僕にはそれがわかる!」
「なぜそんなことがおまえにわかるというんだ修司! おまえは──」

 ソムニアでもないだろうに──と言いかけ口をつぐんだシドの意を察し諒子が割って入った。

「修ちゃんは──、修司は亮の兄だからよ。それも再婚先の連れ子とかいう法律上のつながりではない。
 成坂修司という人間のアルマは、秀綱が亮の原形を作るのに用意したアルマ屑と隣接してそこで休んでいた個体なの。
 亮の欠片を集める時、おそらく修司のアルマも幾分か混じったはず。
 それを正確に“兄”というかどうかはともかく、アルマとしては最もつながりが強い人物と言えるわ。
 もしもの時にこの子の助けになるかもしれないと、私はそのアルマに印を付けていた。
 私が成坂家を探しだし亮を託していったのは単に経済的問題だけじゃなかったってこと。
 そこに修司が居たから。
 己のアルマを分けてくれた彼なら、亮を護ってくれるのではないかとそう考えたから」

 シドの目が見開かれる。
 傍らのパイプ椅子に座る良く知る顔を眺め、大きく一つ息を吐いた。
 確かに、修司は亮のゲボに惑わされることが一度もなかった。
 彼の父は無意識に亮というの危険を察し、自ら少年を遠ざける道を選んだ。
 彼の周囲にいる多くは亮のゲボにより、破滅の道を進んだ。
 だが一番近くに居た彼は信じがたいほどに強く硬く、成坂亮のゲボに当てられることなどなかった。
 それは単純に魂の資質によるものだとそう思っていたが、それだけではなかった。
 真の意味で彼らは近しいアルマを持つ兄弟と呼べる存在だったのだと、腑に落ちてしまう。

「亮は“今”という時の中にはいません。でも、その存在は感じます。
 いつか、そう遠くないいつか、再び同じ時間軸に戻ってくる」

 言い切る修司は以前からは考えられないほどに強く、泰山梁木として見えた。
 シドが彼を見つけられないでいる間に、彼は一息に成長を遂げていたらしい。
 闇雲に走り続けた己と、おそらく一歩ずつ努力を重ねた彼との差をまざまざと見せつけられた気がした。

「亮が戻ってきた時。その時が勝負です」
「亮を渡さぬよう私たちの元へ連れ帰り──、そして亮のアルマを……彼に移す」

 諒子の視線がベッドの上に座したままのイリヤへと向けられる。

「私の外郭を全て亮に渡すと、そう諒子には確約した。私のアルマはもう役目をとうに終えている。2000年という時は人の身には長すぎたのだ」

 遠い目で彼方を見るイリヤは淡々と機械のようにそう言った。
 その響きは、彼が言うようにヒトとしてのアルマはもう機能していないかのようだった。

「亮と修司。私とエノクを見ているようだ。だから私は亮に全てを明け渡し、私自身は生樹の流れに乗って──随分と逢えていないケテルの兄の元へ旅立ちたい」

 旅立ちたいと言っているが、実際彼のアルマはケテルまでの道筋で消えてしまいそうだとシドは感じた。
 本人もそれは承知の上なのだろうとわかる。
 彼の引き渡してくれる外郭も、恐らく弱り切っているに違いない。
 それでも守護者として機能し続けた身体は恐らく亮のアルマによく馴染むだろうことは想像に難くない。
 亮という存在の創られ方と、イリヤの過ごしてきた運命はとても近しいものだからだ。
 諒子の考えはシドにとって天啓のように感じられた。

 もちろん、言うほど易くはないだろう。
 まだ幾重にも壁が行く手を塞ぐに違いない。
 だが諒子と修司の計画は、今までのどの案よりも現実的だと直感できる。
 亮のアルマのみを救出する。
 肉体は変わるかもしれない。
 アルマの枝葉も違うものになるだろう。
 だが、亮の本質と記憶は確かに亮本人のものなのだ。
 それで十分だった。
 それこそがシドの求めるものだからだ。

「──シド。あんたに断る権限はないわよ? 今遂行中の私のプロジェクトにとってあんたはなくてはならないピースなの。
 亮を私たちのしでかした過ちの輪から解放するため、……あんたの全部を私にちょうだい」

 言い切る諒子の瞳は強い光を放ち、生き生きと輝いていた。
 己を削り尽くした者の持つ気精ではない。
 彼女には亮を取り戻す、勝算があるのだ。
 白馬に乗り消えていく少年の小さな背中。
 シドの脳裏で繰り返されるその小さな背が、少しだけ近づいた気がした。