■ 5-15 ■ |
そこには何もなかった。 広くて真っ暗な空間はとても狭いようなのに壁も天井も見あたらない。どこまでもどこまでも真っ暗な世界が広がっているように思える。 だから亮は、一つ場所を決めて膝を抱えて座っている。 真っ暗な空間の中で、亮がそこでうずくまったのにはわけがある。 そこには何もなかったが、ただ一つ亮の目の前にあるものがあったから。 見上げるように大きなスクリーン。 映画館にあるものよりももっと大きな白い幕が目の前に掲げられ、その中に亮の知らない場所が映し出されていた。 亮は膝を抱えてぼんやりとその映像を眺めている。 色あせたフィルムのように映し出されるそれが映画なのか何かの記録なのか、亮にはさっぱりわからなかったが、今はただそれを見て気を紛らわせるほかなかった。 実は先ほどから体調もおかしい。 音がよく聞こえないのだ。 自分で声を出してみてもそれが自分の耳に届かない。まるで真空の宇宙かなんかにいるんじゃないかと思えてくる。 そのくせ、身体の奥底から常に聞いたこともないような綺麗な音楽が溢れてくる。 いや、音楽というと語弊があるかもしれない。音や色や感情や数字や亮の認識できるもの認識できない何か。全てが身体の中心の奥の向こう──どう表現したらいいのかわからないが、とにかく壊れた水道栓から吹き出す水のように内側から溢れ出てきて溺れそうな感覚に陥る。 息が出来ないような錯覚に捕らわれ何度も息を継ぐ。そうしてみると普通に呼吸はでき、別段それで亮が何か被害を被ることはなさそうな気もした。 息を継ぐ度、口からその綺麗な音が漏れるんじゃないかと思うのに、亮の外に音楽は出てこようとはしない。 夢を見ているんだなと、亮はそう結論づけた。 身体の中を巡り続ける綺麗な何かとなんとか折り合いをつけ、亮はそれを無視して目の前に広がるスクリーンを見て暇をつぶそうと考える。 映像はどこか知らない真っ暗な部屋を映し出していた。そこを床に置かれた蝋燭のような明かりがポツリポツリと照らしだし、部屋全体をゆらゆら揺らしているようだ。 よく目を懲らせば、揺れているのは部屋ではなくカーテンのようなものらしい。その薄い布地を誰かが手でそっと割りよけ、映像は先の空間に進んでいく。 カーテンの外もほの暗い空間が続いているが、天井や壁、床までもが星空のようにきらきらと輝き、決して陰気な雰囲気ではない。 綺麗だな……と亮は膝を抱えながらその映像を眺める。 と、カメラがぐるりと回転した。 何者かが映し出しているカメラマンの手を掴み、引き留めたかのようだ。 映像は背後から引き留めた相手の顔を映し出す。 まだ若い、亮と同じくらいの年齢の少年。身長はわからないが、映し出すカメラより少し高い位置にある顔は丸い頬と太めの眉毛、大きな黒い瞳を持ち、その瞳は困惑したように揺れている。 ふっくらとした頬や目元に藍色の染料で模様が入っているのは何だろう、と思う。 幼さの残る可愛らしい顔立ちの彼に、その模様は不思議と似合っていて、ちょっとかっこいいなぁと亮はぼんやり思った。 少年はカメラに向かって何かを必死に喋りかけているようだが、映像には音声がないせいで、亮には彼が何を言っているのかわからない。 カメラはその少年を映し出すのをやめ、再び前を向いて前進を始める。 目の前にはきらきら光る壁が近づいてきて、扉らしきものの取っ手があるのが伺えた。 あのドアから出るのかな? と亮が映像を眺めていると、なぜかふっと画面が陰り、次の瞬間目の前が白く輝いた。 突然の光量に亮は一瞬瞳を閉じ、おそるおそる瞼を開ける。 そこは真っ昼間だった。 最初の画面がまるで星空のような不可思議な部屋だったせいか、なんとなく時刻を夜だと思いこんでいた亮は、目を丸くする。 良く晴れた青空。輝く眩しい太陽。どこかのコンビナートの一角に入り込んだようなうねる金属パイプ。背の高い謎の機械群と倉庫。 遠くで動いているのは荷物を運ぶリフトカーだ。 乾いた風が吹いていた。ほこりっぽい臭いの中に、微かに油臭さも混じっている。 ここはどこなんだろうと、亮はスクリーンを見ながら思った。 コンクリートを綺麗にしかれた足下には真昼の光に照らされた短い誰かの影が、濃く黒く描き出されている。 きっとこれを撮っている人物の影なのだろう。 しかしその影は短いためどんな人物か特定できないし、それに陽炎のようなものがゆらゆらと画面をかき乱し、影自体も不安定だ。 ふと前を向いたカメラは広めの通路を移動し始める。 その歩みはゆっくりだったが、次第にスピードを出し、まるで空を滑空するかのように有り得ないスピードで機械群の中を突っ切っていく。 亮の中で綺麗な音楽がますます鳴り響き、目の前のスクリーンにはスピードで熔けたような鋼鉄の街並みが描き出される。 青空には雲一つなく、吹きすぎる風は知らない臭い。 と、カメラの前に一瞬なにか黒い塊のようなものがよぎり、それはすぐに目の前でぱっと開いて投網のようなものとなりスクリーンを覆っていた。 だがそれも一瞬のこと。ネットらしきものが掛かったように見えたが、すぐにそれは真っ白な灰となって風に散る。 カメラのスピードを殺すことさえ出来ない。 次に強い閃光が画面の前を横切っていた。 幾筋もの光の軌跡となり、スクリーンに焼けた直線を描き出していく。 そこで初めてカメラは停止していた。 その光の出所を探すように周囲を見回し、足下数メートルの位置にたむろする男達の姿を捕らえる。 彼らは手に手に大型ライフルのような銃を持ち、一様にこちらへ向け構えている。 そこで初めて亮は理解した。 どうやらこのカメラは攻撃を受けているらしい。 大勢の大人達が何かを叫び合いながら眩い光を放つ銃を撃ち放ってくる。 完全にカメラそのものを狙った角度で無数に撃ち込まれるそれに、あれ、これでこの映画は終わりなのかな? と亮はそう思う。 映画ならこれは完全にバッドエンドで終了の流れだ。 この何もない場所でこの映像が終わってしまえば亮はすることもなくなってしまう。 困ったな──と唇を尖らせた亮の前に、撮影者らしき者の左腕がさっと映った。 白く細いそれには手首外側辺りに綺麗な純白の羽根飾りが付いている。 めらめらと揺らめくそれはまるで炎で出来ているかのようにも見え、その特殊効果の凄さに亮は感心してしまう。 羽根飾りの付いた細い腕がさっと前面を薙げば、虹色の軌跡が周囲に広がり、男達の放った光の銃撃は全て光の粉状になって消えていくのだ。 なるほど、映画はまだ続くんだな、良かった。と亮は少しホッとしながら画面に見入ることにした。 男達は攻撃が通用しないことに驚きの様子を見せながらも、次々と同じ攻撃を続けてくる。 そのちくちくとした剥き出しの敵意に業を煮やしたのか、画面がゆらりと陽炎のように揺らめいていた。撮影者が逆に攻撃をしかけたらしい。 足下に群れていた十数人の人間が驚いたようにこちらを見る。だがそれ以上の行動は取ることが出来ないようだ。 なにしろ一瞬の出来事なのだから。 男達は逃げる行動もできず銃をこちらへ構えたままじわりと輪郭を無くし輝き始めていた。 同時に足下数メートルの位置にあるコンクリート道路も虹のように光を放ち始める。 何が起こっているんだろうと亮が首を傾げる眼前で、次の瞬間、何もかもが色も存在も無くし、ふわっと幻のように掻き消えていた。 残るのは砂粒のような光の粒子のみ。 その男達の形をした粒子の集合体も、亮が瞬きを三つする間に風に散って消えていく。 足下のコンクリート道路も、少し先に立っていた倉庫らしき建物の一角も、ごっそり丸く消えていた。 まるで隕石でも落ちた跡のようなその部分は熔けて固まったガラス質のような物で覆われているらしく、太陽の光を反射して歪な輝きを放っている。 再びカメラは周囲を見回し、辺りの景色を映し出していた。少し高い位置にあるカメラからもこの工場群の端は見えない。 どこまでも広がる鈍色の街は、どれだけの広さがあるのか皆目見当も付かない。 こんなに広い工場地帯など、亮は見たことがなかった。 撮影者もどうしたものかと戸惑っているのか、行き先を決めかねるように周囲を見回し続ける。 と、画面ががくんと揺れていた。 何かによって撮影者は下へ引っ張られているようだ。 見れば、もこもことした布地のヒヨコ色の短パンから伸びた細くしなやかなその足に、柱のような水塊が絡まり、それが渦を巻いて下方へ撮影者を引きずり落としているらしい。凄い力で引かれているようで、グン──と映像が揺れた。 だが地面に叩き付けられる瞬間、撮影者はぐるりと身体を回転させ、その勢いで足に絡んだ水塊を断ち切ってしまう。 目の前に、先ほど星くずの部屋で見た少年が立っていた。 太い眉をぐっと寄せ、悲壮な面持ちでこちらを見る少年は、必死にこちらへ何かを語りかけている。 だが亮にその声は届かない。 スクリーンの向こう側で涙を浮かべて叫ぶように語る少年に、亮は胸の奥がずきんと痛んだ。 だが撮影者は特に何の感慨も示していないようで、少年が何かを訴え続けているにもかかわらず、それを制止するかのように左腕を振り抜く。 虹の軌跡が少年に迫る。 あっ、と亮は画面を見ながら声を上げた。 あれが触れればきっとあの少年もさっきの大人達のように、光の粒になって消えてしまうに違いない。 思わず目を閉じた亮だったが、数秒の後そろそろと瞼を開き画面を伺ってみれば、少年は厳しいまなざしでこちらを見つめたまま、同じ位置でしっかりと地に足を着いて立っていた。 ほっと息が漏れる。 少年の左腕には水流で出来た盾のようなものがくっついている。どうやら虹色の軌跡はその盾のおかげで回避できたらしい。 そして右手には同じく水で出来た1.5メートルほどの棍が握られていた。 この人も棍を使うんだと思うとなんだか親近感が沸いて、無表情だった亮に小さく笑みが浮かんだ。 再び撮影者の左腕が上がる。 放たれる虹色の軌跡を少年の水盾が受け止め、凶気の虹は深い藍色の水の中へとっぷりと沈んでいく。 少年は撮影者の攻撃をどうにかかわしながらも、懸命に何かを伝えようとこちらへ声を掛けているようだった。 そこで初めて亮は気がついていた。 この撮影者は少年の説得にまるで耳を貸していないと言うことに。 涙目で言いつのる少年の様子は亮にとって見るに見かねる程のものである。だが、撮影者はそれに何の感情も動かされてはいないようだ。 その証拠に、亮がやめて欲しいと思うこの場面においても、撮影者は攻撃の手を弛めることをしない。 少年が撮影者の放つ攻撃をかわしつつ、ふるってくる棍に殺気は感じない。 むしろ戸惑いを含みながらの一撃は逆に少年をピンチへと追い詰めるばかりであり、そんな状況であると画面を見ている亮ですらわかるというのに、撮影者はまったく意に介すことなく、容赦ない攻撃を加えていく。 撮影者の攻撃を避け大きく跳躍した少年が棍を振り下ろす。それも急所である頭や心臓などをめがけてはいない。 肩や腕など末端を狙った攻撃だ。 撮影者の視界がぐるんと回った。 スクリーンの映像が空を捕らえ、工場群を映し、次に少年の姿を捕らえたときにはすでに撮影者の攻撃は放たれた後であり、揺れる陽炎で画面は滲み、亮はしっかりと現状を把握することすら出来ない。 しかし亮にはわからない何らかの攻撃がなされたことだけは理解できる。 今スクリーンに映る少年の身体は大きく空いたクレーターの縁で倒れ伏し、今にもその奈落にずり落ちていきそうな状況だったからだ。 それでも少年は撮影者の追撃を逃れるように身体をひねって立ち上がると、再び大きく背後へ跳び退り、手に握った棍をふるって撮影者へと挑んでくる。 力強く振り下ろされる棍に、亮は見ていてぞくぞくと興奮を覚えていた。 スクリーンに映るこの少年はかなりの手練れだ。きっと今の亮でも及びきれない技と経験を持っているに違いない。 亮は食い入るように画面を眺め、そこに映る状況だけをその大きな黒い瞳に映すのだった。 「もうやめよう、亮くんっ! お部屋に戻ろう!?」 ルキは何度目かの説得を叫ぶように口にしながら、己の水で造り上げた棍を振り下ろしていた。 だがその打点は人の弱点である頭蓋などには向けられない。 あくまで行動を押さえ込むための末端にねらいを絞ってしまう。 もちろんそんな半端な攻撃が今の亮に通用するはずがなく、ルキの一撃は何度もかわされ、その度に何度も命を脅かす危機に見舞われていた。 亮の放つ見たこともない得体の知れない攻撃光は、微かに触れただけで物質も人間も全ていずこへともなく消し去ってしまう。 あんな風に光の粒子となり消えていく様を、ルキは見たことがない。 IICRの一員であり獄卒対策部で最前線に立つルキすら知らないその攻撃方法を避けるには、彼の持つ特殊なラグーツを使用するほかなかった。 ルキの持つラグーツはその他ラグーツ能力者と一つだけ大きな違いがある。 それは彼の持つ水は『別のどこか』との二重存在であるということだ。 亮の持つ極炎の翼の熱量は凄まじく、並のラグーツであればそれに触れただけで水は蒸発し、アルマは焼失してしまうであろう代物である。 しかしルキのもつ水は亮の発する熱を別のどこかへ逃がす働きを持っているらしい。 この特徴はひとえに彼がソムニアとして目覚めるとき、異界へ落ち込んだことがきっかけなのだが、それを知るものはIICRトップとラグーツの長、直属の上司であるカウナーツ・ジオットなど、一部の人間のみに限られている。 その能力を買われルキは、謎の病に罹り研究局の一角へ隔離入院することとなったトオル・ナリサカの世話係を申しつかったのだ。 その話を初めて打診されたときは、こんな大役自分には無理だし断ろうと即座に思った。 だが、亮の境遇や状態を聞くに従い、自分で役に立つならと思いを改めた。 特に亮本人に出会ってからその想いはいっそう強まることとなる。 初めて出会ったトオル・ナリサカは意識のない状態だったが、その幼い容姿とあまりに苦しげに縮こまった手足に、ルキは胸の底が掻きむしられるように痛んだのを覚えている。ソムニアとして目覚めたばかりだというこんな幼いアルマが、これほどまでに苦しむのを見ているのがつらかった。 亮が目を開き言葉を交わしてからは尚更だ。 こんな良い子がこれほど理不尽な不遇にあって良いわけがない。 まだ出会って時はさほど経ってはいない。 だが、すでに亮はルキにとって正しく「守らなければならない存在」になっていた。 そんな弟のような存在に振り下ろす棍に殺気が加わるはずもなく──鋭さに欠ける攻撃は容易にかわされ、逆に亮が振る腕の動きに合わせて放たれる虹色の凶器にあっという間に飲み込まれてしまう。 あれに触れたらおしまいだ。 咄嗟にルキは己の水を身体の前面にバリヤのように張り巡らし、それすら突っ切ってくる輝きを分厚い左腕の盾で受け止める。 それでも衝撃に身体を運ばれ、したたか地面に身体を打ち付けられる羽目となっていた。 熔けたコンクリの地面ではいつくばるルキに興味を失ったように、亮は大きな二枚の翼を羽ばたかせ再びふわりと宙に浮き、どこか別の場所を目指して移動を始めていた。 「いけない亮くんっ。キミが動くだけでこのセラが歪んでる。危ないんだっ! お願いだから部屋へ戻って!」 それでも追いすがるようにルキは立ち上がり、亮の動きを止めようと振るった棍から精一杯のラグーツを飛ばし、亮の足を絡め取ろうとする。 亮がそれに気づき、表情も変えぬまま六枚の副翼を羽ばたかせた時だ。 全く別の方向から、蒼く尾を引く巨大な線が亮の右大翼を貫いていた。 「っ──」 亮の身体が一瞬揺らぐ。 空中で身体を支えている大翼を貫かれ、さしもの亮もバランスを崩したらしい。 巨大な矢はその長さ一メートル半。太さはルキの持つ棍ほどはある。 貫いたその場から音を立てビキビキと翼が凍り付いていく。 その隙を逃さず、ルキの放ったラグーツは亮の足を捕らえ、再び地面に引きずり落とすことに成功していた。 続けて、二の矢、三の矢が亮の翼を違えることなく貫いていく。 燃えさかる翼が恐ろしい速度で凍り付き、彫刻のように固まっていくのがわかる。 「大丈夫か、ルキ!」 「フレズくんっ!!」 右手から駆け寄ってくる頼もしい姿に、ルキは思わず声を上げていた。 諜報局局長であるハルフレズには、この研究局エリアで起きた異変の情報もいち早く届き、応援に駆けつけてくれたらしい。 「なんだってこんなことになってるっ! ジオットはどうしたっ」 「部長はさすがにこれ以上仕事抜けられなくて一時間ほど前に戻ったよ。今は僕とウィスタリアが眠ったままの亮くんの看護にあたってたんだけど──」 「大きさが戻ってるな。もう子供じゃないんだろ。なぜ話が通じない」 凍り付いた己の翼を不思議そうに眺める亮の様子を見ながら、ハルフレズが疑問を口にする。 ルキはその間も己のラグーツを強固に練り合わせ、いかついロープの体にして亮の身体を拘束するべく必死に能力を操っている。 「わからない。ただ、理解するとかしないとかそんな感じじゃないんだ。まるで機械を相手にしてるみたいな──僕の言葉そのものが意味をなしてないみたいで」 「ウィスタリアは何て言ってる」 「わからないって。ただ、早く連れ戻さないと大変なことになるってだけは言ってたけど」 「そんなことは俺にだって言える! 研究局の局長が一構成員に何寝ぼけたお願いしてんだまったく!」 ここには姿さえ見せないエイヴァーツのトップに腹を立てながら、元イザのトップは手にした巨大な氷の洋弓を至近距離からぎりりと亮へ向け引き絞っていた。 そうするだけでその先に、新たな矢が結晶していくように生み出される。 「やめて、フレズくんっ。こんな距離でキミの攻撃を受けたら亮くんが死んじゃうよ! 僕らはあの子を連れ戻すことが目的なんだよ!?」 「わかってるっ! 殺しはしない。だが身動きが取れなくなる程度には弱らせないと、連れ帰るなどとても無理だ」 「弱らせるって、ダメだよっ。やっとあの苦しみから回復したところなのに、そんなことしてまたあの状態になっちゃったらどうするのっ!?」 「今はそんな悠長なこと言ってる状況じゃないだろうっ。もう何人死んでる!? それにこのセラが崩壊したらUSの国家予算並みの金が消えてなくなるんだぞ」 「お金の問題じゃないよっ! そりゃ警備の人が亡くなったのはダメだけど、あの子だって殺そうと思ってそうしたわけじゃ……」 そうこう二人が話し込んでいる間に、亮は縛り上げられた己の手足をうごめかせ、うまくいかないと感じるやぐっと大きく身体を反らせていた。 全長三メートルほどの蒼く凍り付いた翼が輝きを増し、その下でめらめらとざわめく六枚の副翼が大翼と同じサイズに膨れあがる。 「っ!?」 瞬時に危険を察知した二人は数歩後ずさると体勢を低くし、両腕で前面を覆う。 ルキの前には水のヴェールが。 ハルフレズの前には氷の盾が形成され、それが完成しきるよりも早く異変は起きていた。 凍り付いていたはずの亮の大翼がフレア爆発の如く吹き上がり、周囲の建物を焼き払っていく。 咄嗟にルキは隣にいたハルフレズを庇うように、ヴェールの範囲を広げていた。 カウナーツ能力などによる普通の炎であれば、ハルフレズのイザで完全に相殺できるはずである。 だが亮の炎は特殊だ。 あのエネルギー量は一人のアルマが内包できるものではない。 熱風が吹き荒れていた。 ハルフレズは咄嗟に閉じた目を開き、両腕の間から状況を確認する。 そこで己の口から呻きに似た悲鳴が上がるのを聞いた。 目の前で自分の恋人が吊されていた。 数メートル上空に浮かんだ死の天使が、ルキの首を左手でぐっと掴んだままふわりと浮いている。 ルキは苦しそうにその腕を掴み、どうにかそこから逃れようと藻掻いているようだった。 よく日焼けした、バミューダパンツから覗く二本のしなやかな足がばたばたと暴れている。 「やめろっ!!!!」 何の作戦もなく身体が動いていた。 ハルフレズは大弓を捨てると大地を蹴り、腰から引き抜いたナイフを振り下ろしながら亮に掴みかかる。 感慨もなくそれをちらりと見た亮は、ばさりと大きく翼をはためかせる。 それだけでハルフレズの身体は熱風に焼かれ大地に叩き付けられてしまう。近づくことさえ出来ない。 手に触れた大弓を構え直し、何本も矢を撃ち込んだ。 今度は翼ではない。亮の腹部、心臓、頭にねらいを定め、次々に撃ち込んでいく。 だがそれらの矢は天使に届く寸前できらきらと蒸発し消えていくのだ。 「ルキイイイイイイイっ!!!!」 亮の細い指がぎりぎりと恋人の喉に食い込んでいくのが見える。 藻掻いていた足の力が徐々に抜けていくのを、ハルフレズの瞳はくっきりと映し出していた。 「やめろっ、やめてくれっ!!!!!!」 無駄とわかっていながら再びハルフレズは跳躍する。 だがその手がルキに届くことはない。 再び熱風が吹き荒れ、ハルフレズの身体は地面に叩き付けられる。 どこもかしこも焼けこげ満身創痍だ。 だがそんなことに構っていられる余裕はなかった。 このままでは死んでしまう。 ルキが消えてしまう。 目の前で、一番大事な人間を失うのだ。 次に転生で逢える保証が、今はない。 それほどにソムニアの転生が狂っている今の状況での『死』は、寂静に近いものではないだろうか。 ぶるりとハルフレズの身体に震えが走った。 力なく、だらりとルキの足が垂れ下がる。 「やめろおおおおおおおおおおっっっ!!!!!」 周囲に何もなくなった焼け野原で、ハルフレズの悲鳴が轟いた。 目の前のスクリーンに映る少年は、苦しげに藻掻いていたが、徐々に力を無くし、ぐったりと瞳を閉じていく。 亮は画面に向かい必死に声を張り上げる。 「やめてあげてっ、なんでこんなことすんだよっ、やめろってば!!!!!!!」 しかし亮の声は綺麗な音楽にかき消され、どこにも届くことはない。 亮は立ち上がるとスクリーンへすがりつく。 本当に今すぐこの手を放さなければ、この子は死んでしまうに違いない。 「やめろっ、やめろよっ!!!! 放せよ、やめろおおおおっ!!!!!!」 泣きながら叫ぶ亮の視界に、足下で同じように何かを叫んでいる男の姿が入り込む。 あまりに悲壮なその姿に、亮は胸が引き裂かれそうな痛みに襲われる。 どうすればいい? どうすればこの手を、この指を、自分の思い通りに動かし、開くことができる? オレはこのままこの子を殺してしまうんだろうか──。 そう考えが及んだとき、亮の身体がぎくりとすくんだ。 この映像は、なんなのか。 この状況を作り出しているのは、誰なのか。 何かが亮の中で合致しそうになり、ガチガチと歯の根があわないほどの震えが走る。 これは、自分だ。 今見ている映像は、自分が見ている映像なのだ。 そして今少年を吊り下げているこの腕は、亮の左腕なのだ。 だから亮の頬には映像と同じ乾いた風が当たるし、亮の左手には少年の首に食い込んだ肉の感触があるのだ。 「いやだ……、やめろ、やめて……、だれか、たすけて……、助けて、助けて、オレをここから、出してっ、助けて、たすけて……」 スクリーンにしがみつきそれでも何も出来ない自分に亮は血が吹き出すほどに唇を噛みしめる。 左手に、びくんびくんと痙攣する少年の身体の重みが伝わってくる。 「あ……、あ……、あ、あ、だめ、ダメ、ダメだ、だめっ」 目を見開きスクリーンを見つめるしかない亮の前に、断末魔に喘ぐ少年の姿が映し出されている。 綺麗な音楽が身体の底からあふれ出し、亮は発狂しそうに音のない声で叫んでいた。 その瞬間。 「亮っ!!!!!!」 音が、聞こえた。 唯一、音楽でない、声。 意味をなすその音色は、もう一度同じ意味を込めて、亮の耳元で鳴り響く。 「亮っ、亮!!!!」 それは確かに自分の名前だ。 心地良い低音からなるその音に、亮は深く息を吸い込んだ。 肺に熱い空気が流れ込む。 次に亮の左手を、ひんやりと冷たい何かが包み込む。 少年を吊す自分の手の映像に、もう一本、何者かの腕が映り込んでいた。 瞬間、亮の周りの黒い空間は暗幕のようにばさりと切って落とされ、頭上に燦々と照りつける太陽と青い空が広がった。 そうして、音が、戻る。 囂々と響く風の音。 下方から聞こえる悲鳴に似た男の叫び。 そして背後から聞こえる、よく知った声。 「亮っ、手を放すんだ!」 ぎりりと強く手首を掴んだ冷たい体温に亮は視線を向けると、力の入っていた己の左手をふっと開いていた。 支えを失った少年の身体がすっと大地に落下していく。 いけない──そう思った亮の視線の先で、少年は下で待ちかまえていた青年に抱き留められ、ゴホゴホと咽せながら抱きしめられているようだった。 ジリジリという聞き慣れない音が背後から聞こえ、亮はぼんやりとしたまま首を巡らせる。 どうやらその音は自分の翼の付け根を押さえ込んだ大きな手のひらから上がっているらしい。 「いつまでこんな場所に浮かんでいるつもりだ。さっさと地面に降りろ、馬鹿者」 まず目に入ったのは風に靡く朱い髪。 琥珀色の瞳が亮の顔を映している。 「し……」 その男の名前を呼びかけ、そこで亮の力は尽きていた。 ガクンと力を無くした身体は、先ほどの少年と同じく重力に引かれ落下を始める。 その背に雄々しく生えていた巨大な翼は掻き消え、代わりに小さなおもちゃのような白い翼が肩胛骨の上辺りにちょこんとくっついていた。 落ちたら痛いだろうな……とぼんやり考えた亮の身体は空中で黒い影に抱きかかえられ、何の衝撃もなくふわりと大地に降り立っていた。 いや、正確には降り立ったのは自分を抱きかかえた男であり、自分は未だ男の腕の中で子供のように抱かれたままだ。 「まったく──俺がいない少しの間にずいぶんと暴れてくれたものだ。これではもうおまえの存在を隠しておくことができんぞ」 溜息混じりに言った声にはしかし、亮を責める色はまるでない。 亮の耳がおかしいのかもしれないが、ひたすらその低音は甘く、亮は「うん」と意味ない返事を返しただけで、低い体温にすり寄るように目を閉じた。 |