■ 5-29 ■

 ぬかるみのような感触が常に足へ負担を掛ける。
 ブーツを着けば少し沈み込み、上げれば粘るようにそれが絡みついてくる。
 周囲に道はなく、木も草もない。ただ、恐ろしい急勾配が砂漠の山脈のように続き、距離感を失いそうだ。
 そして粘るそれは、泥でも砂でもない。
 暗緑色をした炎なのだ。
 この色をした炎はさして温度は高くはないとはいえ、それでも摂氏にして500度以上はあるはずで、耐熱性の全身スーツに身を包んでいてもじりじりと彼らのアルマを焼いていく。
 空は、低い。
 いや、正確には空はなかった。
 このセラは三重構造になっており、表層に当たる第一層まで戻らねば、どんよりと灰色にたれ込めた空すら見ることはできない。
 現在彼らが進んでいるのは第二層。つまり今彼らの頭上にあるのは、空ではなく、空の形状を模した第一層の底ということになる。
 カイは手にした火炎放射器を構え、前方を一気に焼き払っていた。
 己のカウナーツを放出するための武器を彼はいくつも使い分けていて、まるでウォーターガンのような作りをしたそれも彼自ら作り出した自信の一作だ。
 蛍光イエローのペンキでスマイルマークを落書きされたブラックメタルの銃身から、えげつない紅蓮の炎が吹き上がる。
 赤系炎の中でも最高レベルの威力を誇る彼のカウナーツは、一瞬にして粘つく暗緑色の炎を駆逐していく。
「おら、ぐずぐずすんな。走れ走れ! 早くしねぇとまた生えてくるっ」
 振り返るとヘルメットのバイザーを弾き上げ、後方を歩いてくる後輩にそうはっぱを掛けていた。
「まぁた先輩ヘルメット上げて、肺が焼けちゃいますよ! 危ないから閉じてくださいっ」
 そう言って若干歩くスピードを速めた後輩の声はカイの耳元にあるスピーカーから聞こえてくる。
 全身黒スーツを着込んでいても、いや、着ているからこそ際だつユーラのスタイルの良さに世界の不条理を感じながら、カイは「わかってるが、こういうの嫌いなんだよ」と唇を尖らせてバイザーを降ろした。
「走れっていったって、僕だって限界ですよ。もう三日も寝ないでこれ運んでんですから」
 そう泣き言を言うユーラの両手は肩から腰に巻かれたベルトに添えられており、その背中から頭上にかけて三階建てのビルほどもあろうかという巨大な塊が乗っている。
 大きすぎるが故に塊──としか言えないそれは、よく見ればカーキ色をした規格外のリュックサックだ。
 そして歩くユーラの顔の位置は、いつもより若干低い。
 190センチを越える長身の彼と172センチそこそこのカイの視線がこんなに近いのには、わけがある。
「しかもこの辺り第3層より地盤が柔くて、歩きにくいんですもん。行きはこんなことなかったのに、道、合ってます?」
「そりゃおまえ、何百トンのもの背負ってると思ってんだ。足だって沈むさ。道は合ってる、心配すんな」
「……ああ、そっかぁ」
 言いながら下を向いたユーラのブーツはその重さで十センチほど沈んでいる。
「もうあと2、3キロでビバーク地点だ。これでノルマ達成。トレーラーでアイスでも食おうぜ」
「だから先輩、バイザー上げちゃダメですって。そんな顔中ピアス着けてて、この熱で焼けちゃいそうで僕が恐いですよ!」
 眉間に縦皺を刻み、いつもより近い距離にあるカイのヘルメットバイザーを降ろしたユーラが振り返ったのはその時だ。
「おわっ!!!」
 咄嗟にカイは地面に伏せ「おまえわかってんのか、山背負って気軽に振り向くなどアホっ!」と文句を言うが、その抗議も後方から低く響く獣のうなり声によりかき消されてしまう。
「嘘だろ、第二層はあいつらの縄張りじゃなかったはずだぜ!?」
 再びちろちろと燃えだした暗緑色の炎に突っ伏していたカイは、小山のようなリュックの影を抜け出し、再び火炎放射器を構えた。
「ユーラ、おまえ先に戻ってろ。俺は班長と一緒に後から戻る」
「えっ!? でも、この先道を焼き固めてくれないと、僕の足が焼けちゃいますよっ」
「あと3キロくらいなら走れば持つ! ブーツの底が焼けきる前にたどり着け」
「えっ、えええええっ!? ちょっと、カイ! 無茶苦茶だよっ!」
「あいつらを一人で相手にする方が無茶だっての……」
 そう呟いて身を翻したカイの背中に「えと、じゃあ僕急いでこれ置いてくるんで、それまで待っててください! 一人で戻ろうなんて絶対しないでくださいよ!?」と、珍しく厳しい口調でユーラが言い放ったその時。
 二人の周囲が一瞬暗く陰った。
 見上げれば頭上からマッコウクジラはあろうかという黒塊が唸りを上げて迫り来る。
 たれ込めた灰色の空をバックにしてもよくわかるそのシルエットには、人の手のようなモノが左右対に4組ずつ。計八本が生え、人間よりも二つ多い関節を器用にうごめかせ、腹部のジャバラ状になった器官をうぞうぞと鳴らしていた。
 太陽に突っ込んだかのような灼熱が二人を焼く。
 その生き物の顔は落下しながらも下方にいる彼らの方を向き、真っ白く光る目玉で二人の姿を捕らえている。
「まっずい、ユーラ、荷物守れ!」
 言いながら火炎放射器を捨て、ウエストバッグから手榴弾を取り出すとピンを引き抜き、”それ”の顔面めがけて投げつけていた。
 すぐさま地面へ転がり、大事な銃器を拾い上げて顔を上げると、インパクトの瞬間ぱちんと指を鳴らす。
 投げつけられた手榴弾が紅炎の渦を吹き上げながら弾け飛んだ。
 ギャーともギューともつかない悲鳴を迸らせ、黒い塊がぼとぼととカイの周囲に降り注ぐ。
 灼熱が足に、腕に、ぶつかり穴を穿ち、カイの口から苦鳴が上がる。
 顔の左右の地面にいくつもの穴が開いていた。べちゃりという音と共にヘルメットのバイザーにそれは落ち、耐熱の強化プラスチックがじわじわと穴を開けていく。
 それが爆発後数旬の出来事。
 次に頭をなくした黒い巨体がカイの身体を押しつぶす。
「カイっ!!!!!」
 ユーラのユーラらしからぬ悲痛な声を聞いた気がした。
 これで暗転。
 長くもないが短くもない、それなりに面白い人生だった。
 来月のライブ、代わりのベース誰かやってくれっかなぁ──。
 そんな考えが走馬燈のようにカイのパンクヘッドを回ったときだ。
 周囲の熱が一気に消えた。
 ぶるりと震えが這い上る。
 次に見えたのは灰色にたれ込めた空。
 偽物の空なのに、妙に開放感を感じる。
 横たわる地面の周囲がどすんと揺れた。
「先輩っ先輩っ!!! 生きてますっ? それとも死んでないですっ!?」
 その答えはどっちを選んでもポジティブだな──と思わず口元に笑みを掃いたカイの身体を、屈み込んだユーラが抱き上げる。
 ビルを背負った人間が立ったり座ったりするだけで圧迫感があるというのに、その塊に抱き上げられてはどうにも落ち着かない。
「おま、大丈夫だから降ろせっ!」
「でもカイ、足にも穴開いてるよ!?」
「こんくらい平気だ。カウナーツでガードしてるっ」
 じたばたと暴れるカイにようやくユーラはその身体を地面へ降ろしていた。
「走れるか? 無理ならユーラに運ばせる」
 その冷えた低音にカイはようやく背後に人が居ることに気がついた。
 ユーラと同じくらいの長身。
 だが明らかに身体の厚みの違うそのシルエットは、存在感と威圧感が先の後輩とは比べようもない。
「行けます」
 そう一言告げると、足下に転がる火炎放射器を拾い上げ、痛む足を引きずりながらも前方を焼き払っていく。
「スピード上げます」
 宣言通りに銃身から上がる炎はグングンと威力を上げ、その長さは十メートル弱ほどにまで達する。
 走り出せば足の傷もどうにか行けないことはないとカイは一人頷いていた。
 背後を振り返れば、軽快な足取りでユーラが駆けてくる。
 不思議なことに彼の足は先ほどよりもまともに地面を蹴っているようだ。
 地面へ沈む率が大幅に減っている。
 穴が開き前方が見にくくなったバイザーを引き上げ目を懲らしてみれば、ユーラは得意げないい笑顔でサムズアップを決めていた。
「ビバーク地点が近いと思ったら足が軽くなっちゃって」
 んなわけないだろ──と、声に出そうと思ったが、ばかばかしくなってやめた。
 どう考えても後ろからシドが荷物を支えてくれているに違いない。
 支える地点が二点になったため、地面への負担が分散され足が沈まなくなったということだろう。
 ユーラのウルツが強力なせいで、恐らくこのレベルの重さを担いでいてもそれほどの負担を感じておらず、荷物を支えてもらっていることにも気づいていないのだ。
「俺も足が軽くなったわ」
 突っ込む代わりに同意して、カイは再び走り出した。



 ゲヘナに降り立って二週間が経過していた。
 深層セラは他のセラと違い時の流れが定まっていない。現実世界の40倍、50倍にまで上がることもあれば、ほぼ停止してしまうこともある。
 それゆえ、二週間以上の潜行は許可されていない。
 速度が上がることはまだいいが、停滞が長時間続くと大事となるからだ。下手をすれば肉体を本部に残したまま数年、数十年と時が流れてしまう可能性すらある。
 今日が潜行可能とされる最終日。
 この日までにゲヘナ最下層に蠢く黒炎の巨人から心臓を97個、採取して持ち帰るというのが今回のミッションだ。
 一つの大きさが車一台分ほどもあるその心臓は、燃えさかる黒炎を溢れさせ何者をも焼き尽くす地獄の業火を滾らせている。
 それを生きたまま一匹ずつから取り出し、特殊な瓶に密封するのだ。
 黒炎巨人は人のような顔をし、人のように声を上げ、人のように物事を判断して動く。だが、アルマはない。
 一匹ずつが獄卒相当の危険度を孕み、その炎で焼け死ねば人のアルマは寂静する。
 しかも獄卒と違い群れで行動するのもやっかいなところで、そんなバケモノたちから生きて動いている心臓をえぐり出すのは至難の業だ。
 カイの紅炎で足止めし、シドが一匹ずつ切り裁き、この2週間、5地点でコツコツと心臓を収集してきた。
 そして集めた心臓は恐ろしい重さとなり、それの運搬は全てユーラが受け持つこととなっている。
 今も集め終わった最後の包みをトレーラー後部の広場に降ろし、慎重に荷ほどきを開始したところだ。
 せっかく持ち帰った心臓が荷崩れを起こし、ガラス瓶ごと破壊されてしまっては元も子もない。
 ビルのような荷物を身軽にひらりひらりと上っていったユーラは、上部の特殊ワイヤーをはずし、ゆっくりと袋の口を開けていく。
「よーし、動いてるな……」
 一番上の瓶詰めを取り出し抱え上げて確認したユーラは下にいるりー・ミンに手を振って合図を送る。
「じゃあ渡してくださぁい」
 ふんわりとした笑顔で声を掛けたリー・ミンは荷物の小山脇に立ったまま、手元のコントローラーを操作し始めていた。
 最後尾、三つ目のトレーラーの覆いは後部半分だけ開けられている。
 その最後部から長い鉄骨のアームが伸び、先端に着いたマニピュレーターがユーラに向かって動いていく。
 まるでマジックハンドのような形状のそれは器用に瓶詰めを受け取ると、ものすごいスピードでトレーラーの中へ積み上げ始めていた。
 手渡すユーラの方が追いつかないほどだ。
 瓶は必ずしも全てが同じ形ではない。特殊な材質で作られているが故、一つとして同じ形状はなく、酷いものだと真球に近かったり、三角錐だったり、テトラポットのようだったりと、積み込み者泣かせなのは言うまでもない。
 ユーラも袋に詰めていくに当たって試行錯誤を繰り返したものだ。
 だが、この積み込み時、リー・ミンが流れを止めたことは一度たりともない。規則正しく呼吸でもするように、手渡される瓶詰めが美しく完璧に組み上げられていくのだ。
 トレーラーの中で荷崩れを起こすことは絶対に許されないことだ。
 深層セラへの道のりは、凄腕のライドゥホであるU子であっても険しく、良い道ばかりではない。
 そんな中絶対に中の物を壊さない積み方が彼女には要求される。
 積んでいる荷物が荷物なのだ。
 もし大破損が起これば、チームごと炎に巻かれて寂静する可能性も大きい。
 こんな奇天烈な形をした瓶たちをピクリとも動かぬように組み上げるなど、ハガラーツでも神の手と呼ばれる彼女だからできる技なのだろうとユーラは深く感じ入る。
「あー、もう大丈夫です。ハンド届くので、やっちゃいますね。ユーラさんは休んでてください」
 ある程度の高さまで瓶を渡し終えると、ユーラのお役はご免となる。
 ひらりと飛び降り、傍らで作業を眺めていたカイの隣に立つ。
「凄いですよねぇ。まるでお城の石垣みたいだ。そう言えば石垣の積み方でお城の年代がわかるそうですよ? リー・ミンさんのは何積みっていうんでしょうね」
 しみじみ言った感想に、カイはくいっと薄い眉毛を片方上げると、
「エレメンタリースクールの課外授業かよ」
 呆れたみたいに肩をすくめた。
 上げられた眉毛の端に銀色の珠が光っている。
 そばかすだらけの顔。ド派手なライムグリーンの長髪。
 おまえはエレメンタリースクール生だと言う先輩は、どう見てもちょっと尖ったハイスクールの生徒だ。
 おまけに彼の全身は銃器爆発物だらけで、このまま一人で戦争に行っても夕飯までには帰って来られそうな様相だ。
「カイは顔も身体も装備品だらけだね」
「……おまえ、前から言おうと思ってたが、話が飛びすぎてどう答えていいかわかんねぇよ。てか、身体の装備って、俺は特に下半身はいじってねぇからなっ! ヘソピが俺の一番下の装備だっ。勝手に変な想像すんなよクソがっ!」
 何が気に触ったのかわからないが、そうまくし立てると、ユーラより1回多く転生している先輩は肩を怒らせ「くそっ、ビール飲みてぇっ」などと任務中であるにもかかわらず感心しない独り言を漏らしながら、運転席の方へと歩いていく。
「先輩、班長は?」
 別にそっちの身体の意味じゃなかったんだけどな。そうか、カイはおへそにまでピアスしてるのか──などとぼんやり考えながらそう問いかければ、カイは振り向きもせず「U子っちと仲良くお話中」と不機嫌そうに手を振っていた。
「怪我、平気なんですか?」
 そんな態度にめげることなくユーラはその背を追い駆け寄ると、上からカイの顔を覗き込む。
 眉を寄せ、薄い唇を尖らせ、ジロリと眺めてくるやぶにらみの視線は身長差の関係でどうしても上目遣いになり、尊敬すべき先輩ではあるというのに全く恐くは感じない。
「まぁ痛いけどいつもこんなもんだ。武力局にいりゃ、どこの部だって大抵は生傷絶えないだろうが」
「そんなの獄卒対策部と探査部、警察局の一部くらいのもんじゃないですか? 僕はIICRに入って一度も怪我したことないです」
「けっ、エリート君がっ」
 確かにユーラは転生3度目にして武力局でもインカ付きの中心に近いところで働かせてもらっている。そんな場所にいれば主に指示や伝令のみで、あまり前線に立つことはない。
 しかし4転生目にして獄卒対策部で副長をやっているカイはユーラなどよりさらにもっとエリートではないのだろうか。怪我の有無でエリートかそうでないかが決まるなど違うのではないだろうか──そんな意見を言ってみようかとも思ったが、なんとなくもっと怒られそうな気がしてやめた。
 なんにせよ現在目の前の先輩は虫の居所が悪いらしい。
「先輩、何か怒ってんですか? 怒ってるならちゃんと言ってくれないとわかんないじゃないですかっ。あんまり僕を困らせないでくださいっ」
「はぁっ!? なぁんで俺が怒っておまえが困るんだよ。てか怒ってねぇし」
「いいえ、嘘ですね。先輩は機嫌急に悪くなりました。僕が先輩のチンコの話したからですか? それとも班長がU子さんと仲良く話してるからですか!?」
「…………っ!!!!???? てめぇ、…………いっぺん脳みそ洗って天日干しして来いっ!!!!!」
 そう言われて、ユーラは恐ろしい勢いで殴り飛ばされていた。
 グーパンで。しかもカウナーツ付きで。左頬を。
 これがIICRに入って2期目。ユーラが初めて怪我をした瞬間だった。


「ほんとに無茶苦茶ね、朱色ちゃんは」
 エンジンキーを回しながらU子は呆れたように肩をすくめて見せた。
 ショッキングピンクのタンクトップから顔を出す筋肉の塊が上下に動く様はなかなかに迫力がある。
「ダメよ、このトレーラーに入った瞬間から、ここでは私が指揮官なんだから。あなたはここに居る。戻ることは許さない」
「いいから開けろ。予定より十分以上出発が遅れている。このままでは壁が持たん」
「だからって戻って一人であの八本足の群れと対決するわけ? 心臓集めるのだってカイちゃんとユーラくんのヘルプがあったからできたんでしょ? ムリムリムリムリカタツムリよ」
「今言った通り、まずはおまえが黒炎を本部へ持ち帰ることが重要だ。亮のことは修司とシュラに任せる。もし可能ならばその後俺を拾いに戻ってくれ。同じ地点になるべく残留するように努める」
「あのねぇ。ここから行って帰って来たときに、アンタが生きてる可能性は万に一つもないわよ? アタシは亮ちゃんと修司さんのことはよくわからないけど、ジオットのことはよく知ってるわ。確かにいい男よ。でもアンタの代わりは誰にも出来ない。たとえジオットクラスの超絶イケメンだったとしても、アンタみたいなイケスカナイ最低男の代わりはできないのっ!! 亮ちゃんにとってあんたはひとりだけでしょ!? そんなこともわからないなら恋なんてやめちゃいなさいっ」
 恐ろしく憤った様子のU子は首に掛けたヘッドギアを装着しマイクをオンにすると、後方で積み荷を行っているリー・ミンへ声を掛ける。
「リーミン? あとどのくらい? そう。悪いけど1分で終わって。うん。ごめん。5分は無理。え、あ、そう。じゃマニピュレーター仕舞わず捨てちゃって。うん、いい、いいって。収納に掛ける時間削るから。OK、よろ〜〜」
「……おい」
 その一言に、シドの困惑が含まれている気がして、U子は思わずほくそ笑んだ。
 この鉄面皮の冷血漢にこんな声を出させただけでなんだか勝った気がする。
 確かにこのトレーラーはU子の命であり全てだ。
 あらゆる装備はU子のアルマを削って作り出したものであり、その一部を切り捨てて行くと言うことは、アルマを一部欠如させるも同然のことである。
 特にライドゥホのような自ら作り出す道具が全てである種にしてみれば、戦闘種の人間には考えられないほどの欠損と損壊をそのアルマに被ることになる。
 だが、それを捨ててでも守るべき事があるのだ。
 己のアルマの欠損は時間は掛かるが治療することが可能だ。
 だが、友のアルマを丸ごと見捨てたとあっては、アルマの欠損ではすまない。
 永遠に残る魂の傷となる。
 この無愛想なカラークラウンはU子にとって、親友ではないが、まぁ顔をつきあわせて楽しく酒が飲める相手ではある。
「その代わり、一段落付いたら一杯つきあってよ。オールでね」
「…………わかった」
 無表情には見えるが、その端に今まで彼に感じたことのない人間的な物を見つけ、U子は声に出してふふふと笑う。
 以前ならこの容姿と雰囲気だけを肴に酒を飲もうと思っていたが、今ならそれ以外にも楽しめるポイントがあるのではないかと期待が膨らんだ。
「ちょっと、ボクちゃんたち、早く乗って! エンジン暖まったらすぐにでるわよっ」
 今どき手動でぐるぐるとハンドルを回し窓を開けると、外にいるであろうカイとユーラに声を掛ければ、すぐさま後部シートに二人の野郎どもが乗り込んできた。
「出るって、リー・ミンさんまだ重機片付けてないけどどうすんだよっ」
 運転席と助手席の間から身を乗り出しライム頭の青年が眉間に皺を寄せている。
「ああ、ハンドなら置いていくから平気よ。ほら。もうリーミンも来たし」
 U子が言うやいなや、逆側の後部ドアが開いて息を切らしたリー・ミンが転がり込んでくる。
「U子ちゃん。OK、瓶は完璧」
「はいしゅっぱーつ!」
 U子が傍らのドリンクホルダーから1ガロンのアップルジュースを煽りアクセルを踏みしめるのと、カイ・ユーラの「おいマジかよ!?(うそマジですか!?)」という単純な疑問の声、そして、背後から地響きが聞こえてきたのは、ほぼ同時であった。


 爆炎と呼ぶに相応しい熱が後方から押し寄せる。
 トレーラー最後尾に付いた車載カメラを確認すれば、真っ黒な壁のような物が立ち上がり、恐ろしいスピードでこちらへ迫ってくるようだ。
 土煙を上げて広場を離れると、三連トレーラーは幅7メートル足らずの石畳製の道を走り出す。
 ゴゴ、だとか、ズズ、だとか表現しがたい低音が車を揺らすのは、おそらく背後から迫ってくる物が上げる地響きだろう。
 道の左右は切り立った崖。
 いや、崖ですらない。単に一枚の道が、夢の国へ向かうかの如く、上へ上へと伸びているのだ。
 もちろん多少カーブをつけ傾斜を弛めてあるが、それでも道の一部は傾斜35度、勾配60%越えの急斜面である。
 ノーズの短いトレーラー運転席に座る彼らから見れば、ほぼ崖を登って行くも同然の坂道だ。
「ごめんねぇ。トレーラーの性質上、どうしてもカーブには弱くって。仕方なしに急勾配。ちょーっと我慢しててねん」
「ちょっとってU子っち、あれ、急勾配っていうか壁だぞ、うそだろ、普通の道路ですらこんな坂見たことねぇのに、登れんのかよこのデカブツ!」
 カイの戦きをよそに、U子がアクセルをベタ踏みすれば、トレーラーのエンジンは甲高い唸りを上げながらジリジリと坂道を上りあげていく。
 背後からはまるで祭りを楽しむかのような人間の雄叫びがいくつもいくつも響いてくる。
 あの声を上げているのが人間ではなく、人の顔と八本の手。ジャバラの腹と滴る黒炎を纏った体調20メートルはくだらない巨人だと思えば腹の底から震えが走る。
 少なくともカイは震えそうになる腕を自らの腕で掴んでいたし、隣に座る後輩も大きな体を縮こまらせて頭を抱えていた。
 こうして見ると花火を怖がる犬みたいだと、カイは隣のユーラを眺めて少しだけ気分が上がる。
「おっは、追ってくる追ってくる。ひでぇスピードだ」
 車載カメラを後部座席から覗き込んだカイは己の恐れとは逆に楽しんでいるかの如く大きな声を上げ口元を引き上げた。
「壁が持たなかった。50分は見ていたのだが、思った以上に数が多い」
 そう班長が語る。
 その声音は淡々としていて本当に業務報告を聞いているに過ぎない気がしてくる。
 だが、現状はそんなものではない。
 トレーラーの速度は時速20キロが精々。
 対する巨人どもは時速80キロで追ってくる。
 追いつかれるのは時間の問題だ。
 つまり、絶体絶命のピンチである。
「どうすんですか、班長! 確実に追いつかれちゃいますよ!」
 ユーラがユーラらしく情けない声を上げていた。
 そうそう、ユーラはこうでなくてはとユーラが聞いたら怒り出しそうな見解を持ってカイが一人頷く。
 しかしこんな小童に班長の凄さがわかってたまるかと腹が立つのも事実で──
「てめぇはなんもわかってねぇな。よく考えてみ? あの数の巨人を50分も足止めする壁を自分の能力だけで作るって普通できねぇぞ? てか、まぁ、怪我してスピード落とした俺が一番凡ミスなんだけど」
 思わず己の非を認めてしまう。
「確かに50分は凄いですけど、今現在ピンチなのは変わらないじゃないですかっ。あの数来られたら、たとえPROC総掛かりでもどうにもならないですよ!」
 確かにモニター画面に映る黒炎の壁は端がどこまでだかわからず、地響きはこの世の終わりのように響いている。実際問題、この二週間で集めた心臓より三倍は多い数の巨人達が集結しているに違いない。
「PROC総掛かりとは言いましても、全力で5人ですしねぇ……」
 身も蓋もないことをリー・ミンが呟けば運転席エリアの人間4人から魂の抜けそうな溜息が零れる。
 そんな中、ただ一人何のリアクションも取っていなかった班長、シド・クライブが左手でウィンドウハンドルを回し、窓を全開にしていた。
 穏やかだった車内の空気に一気に猛烈な熱気が入り込む。
「ちょっと、ヴェルミリオ、途中下車は認めないわよっ!」
 すかさず運転席のU子が超低音を響かせ恫喝していた。
 だがシド・クライヴはそんな声などどこ吹く風で、己のドリンクホルダーからミネラルウォーターのボトルを引き抜いている。
 その瞬間、ガクンと車体が揺れた。
 ついに巨人の一匹が最後尾、三両目にたどり着き、トレーラーのコンテナ部分に黒く燃えさかる前足を数本掛けて、車の動きを止めようとしているのがカメラに映されていた。
「カイっ!」
 その声に瞬時に反応したカイは、シドとは逆側の後部窓を開け、同じように身体を乗り出す。それを落ちないようにすかさずユーラが支え、リーミンは邪魔にならないようにすばやく後部シートを逆側に移動していた。
 トレーラーを破壊しようと蠢く巨人に向かい、シドは手にしたペットボトルの蓋を開け、手首のスナップを利かせて中の水を放り投げる。
 瞬間的に矢のように凍り付いた”水”は吸い込まれるように巨人の眉間に突き刺さり、深々とその身を沈めていく。
 だがそれ如きでは彼の動きを止めることは出来ない。
 仲間の心臓が大量に積まれたそのコンテナをこじ開けようと、八本の腕を蠢かせ、ガツガツと殴りつけてくる。
 そんな巨人の頭に刺さった氷の矢めがけて、カイは腰から引き抜いたハンドガンを撃ち込んでいた。
 網膜を焼くような紅蓮の炎が氷の矢に命中する。
 瞬間。
 氷の矢が猛烈な勢いで弾け飛んだ。それはまるでTNT爆薬でもしかけたかのような様相だった。
 あまりに突然の温度差に、固体だった水が液体を通さず、瞬時に気体として膨れあがったのだ。
 頭をなくした巨人は制御を失い、道の下へと落下していく。
「先輩、すごいっ!!!!」
 目を丸くしたユーラが抱えたカイの腰をぎゅっと抱きしめる。
「うっせぇ、キモイ、放せ!」
 そう言いながらも特に蹴りを繰り出すでもなく、カイはそのままハンドガンを構え続ける。
 薄暗いゲヘナの第二階層に、朱とライムグリーン、二色の派手な長髪が風にたなびいている。
 しかしその後から後から、次々と巨人達は折り重なるようにトレーラーに追いすがる。
「道が狭いせいで一気には来ませんけど、このままだと確実に車ごと引き落とされそうですね……」
 カメラモニターを覗き込むリー・ミンが呟いた。
「マニピュレーターがあれば私も戦いに参加できたんですが……」
「いいのよっ。女子は男子に守られてなんぼなんだから。男ども、今すぐどうにかしたらご褒美あげるわよっ」
 女子代表のU子がそう言い終わる前に、再びシドが車内に半身を戻し、今度はU子のドリンクホルダーから1ガロンのアップルジュースを引き抜いていた。
 キャップを取り去ると一気に中身を窓下すぐの道路へ叩き付ける。
 瞬間凍り付いたアップルジュースの刃が、石畳の道路へ付き立っていた。
 何が起こっているのかわからず様子を伺っていたカイに向かい、半身をこちらへ入れ込んだシドが手を伸ばし、襟首を掴んで引き寄せる。
「え、ひやっ!」
 なんとも情けない声を上げたカイは車内を猛然と引きずられシドから背中抱きにされると、一瞬にして窓の外へ半身を乗り出す形となっていた。
「カイ、撃て」
 単純な二つの単語。
 その二つで全てを察知し、カイは己の愛器であるハンドガンの引き金をめいっぱいのカウナーツを持って絞っていた。
 解き放たれる真紅の炎。
 命中したのはアップルジュースの剣。
 膨れあがる『本来ならそのセラにあるはずのない物資”水”』。
 最後尾であるトレーラー三両目が行きすぎたその瞬間、爆発は起きていた。
 トレーラの最後尾にあるタイヤが数度空転し、それでも残ったその先の道路へグリップする。
 しかしそれより後部の道路はまるで飴細工が熱気で溶けていくように──芥の如く闇の中に吸い込まれていく。
 悲鳴のような雄叫びがいくつもいくつも尾を引いて響いていた。
「ひぃぃぃぃ、あんた、無茶苦茶ねっ!!!」
 そんな文句を言うU子の身体から陽炎のような熱気が立ち上り、トレーラーのスピードメーターが20、30,40,50、と上がっていく。
 後部の道路を切り捨てられトレーラーに集中する彼女のライドゥホがスピードに特化して車体を動かしているのだ。
 三連トレーラーというバケモノクラスの車体だけで通常ならば動かすことも不可能だというのに、さらに数百キロの積み荷を乗せて、パワステさえないハンドルを操る彼女の上腕二頭筋は丸太のように膨れあがっている。
 腕だけでなく、その腹筋で、その大腿筋で、U子はバケモノ車体をダイナミックに制御していた。
 トレーラーは頭上に作り出されたU子のトンネル──ピンク色のブロックで囲まれたファンシーなその場所へ向かい、一気に加速を掛けていく。
 彼女の大事な身体の一部は滑らかにそのトンネルを通過し、ゲヘナの第二階層を立ち去っていき──、すぐさま第一階層を覆う本物の空へと上っていく。
 窓から身体を戻し、がっくりとうなだれたカイは慌てたようにシドの膝から身をいざらせ、後部座席へ引っ込んでいた。
 そこで初めて脱力し、腕も足も、全身を投げ出し息をつく。
「ぶはああああっ、……。二十ぺんは死んだ」
 最後の班長の膝上を含めて。そんな意味を込めての呟きだが、深い意味を誰にも理解されることなく会話は続いていく。
「これが最初の任務というのは、……なかなかですね」
 カイに呼応し、リー・ミンも引き攣った笑いを浮かべていた。
「家に帰るまでが遠足。まだ気を抜かないでください、先輩」
 そう言って脱力したカイの下敷きになったユーラは己の上に乗った細い腰をぎゅっと抱きしめる。
 穴だらけになった黒い耐熱スーツがなんかごわごわして嫌だなぁと、若者は訳もわからず形の良い唇を尖らせた。
「さて、朱色ちゃん。あの場に残らなかったご感想は?」
 そうU子が笑いを堪えきれない声で問いかければ、彼らの班長は一言こう言うのだ。
「……次はもっとタイトに行くつもりだ。各々休息と鍛錬を怠るな」
 一同から溜息が漏れる。
「それ、感想じゃなくて今後の予定だわね」
「So cool…………」
「クールじゃないですよっ! もっとなんかあるでしょ、班長も先輩もっ!」
「うふふふ……」
 こうしてPROCの初任務は終わり、97の心臓を積んだ三連トレーラーは12時間のドライブの後、IICR本部外部接続ガレージへと戻っていくのだった。