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小さな木戸をがたつかせながら開くと、暖かな日差しと共に一陣の濡れた風が吹き込んでくる。 シュラは身をかがめて外へ出、ぐっと体幹を伸ばしながら周囲を見回してから頭上を振り仰いだ。 背後には切り立った岩山がそびえているため、空は半分しか見えない。 一年と十ヶ月あまり前、まだこの場所へ来たばかりの頃。空は腐ったような灰色で、黒ずんだ赤や青をした不気味な色の月が大小九つ浮かんでいるだけの空っぽの空間だった。それが今では春の日の煙る青色を持ち、浮かぶ月たちも色取り取りのパステルカラーに輝いて、白く棚引く雲をほんのりと色づかせている。まるでおとぎの国の挿絵のような優しい世界だ。 額の上に手をかざし、前方に広がる草原を眺める。 太陽にも似た眩しい光が左斜め前方から優しく差し込んでいた。 強く大きく輝いているが、あれも月の一つであることがシュラには理解できている。 この世界に太陽はない。否、正確に言えば月のように見えるあれらも月ではない。それも知識として有伶に教えてもらった。 あれは生樹における別の世界が落とす影であり、ティファレトと呼ばれるこの世界も、他の世界から見れば同じく月のような姿で見て取れるはずだ。 亮はあれらの月へ自在に移動することができる能力を持っていると聞いているが、シュラにはそのことに対し現実感がない。 有伶は──いや、IICRは、亮にこのティファレトのみならず、生樹全てを管理させ、現在支障が起きている魂の転生システムを蘇らせるのだと聞いている。 だが未だそれは実行に移されていない。いや、シュラが移させていないと言った方が良いだろう。 「シュラぁ、どこぉ?」 岩山にぽっかりと穿たれた慎ましやかな玄関の中。開かれた木戸の向こう側からむずかるような声が聞こえ、シュラはすぐさま身をかがめ、窟屋の中へ戻っていく。 十五メートル四方の歪な長方形に削られた硬い岩の中が、今彼らの帰るべき家となっている。 シュラのカウナーツで溶かされた岩盤の壁は艶やかな黒いガラス質に変じていて、素材だけを見れば壁も天井もゴシック調の耽美な装飾にも見えるから不思議だ。 だが実際は質素を絵に描いたようなものである。出入り口付近に作られたキッチンスペースには同じような石の作業台と、食材を入れるための戸棚。中央には小さなテーブルと椅子。そして奥には大きめのベッドにマットレスが敷かれただけの簡易な寝床が作られている、原始生活に毛が生えた程度の住処に過ぎない。 「っ、シュラぁ……」 「ここに居る。……どうしたお寝坊。何を泣いてる」 糸のほつれたタオルケットを抱いてベッドの上に身を起こした亮が、不安げな色を瞳に滲ませ、きょろきょろと部屋の中を見回しているのを、シュラは微笑みながら抱き寄せる。 ベッドの上に身を乗り上げれば、安いマットレスが軋みを上げ、シュラの体重に僅かに撓んだ。 ヒヨコ色のボア生地パジャマに身を包んだ亮は、縋り付くようにシュラへ身を寄せ腕を回すとジャケットの裾を強く掴む。 背に息づく小さな羽根が微かに震えているのに気づき、なだめるようにシュラの右手が亮の身体を抱きしめていた。 亮のアルマが疲弊し、崩れ、消えかけたあの日から670日を超えている。 あれから亮のアルマは少しずつ落ち着きを取り戻し、現在は元気に走り回れるまでに回復していた。 胸に掻き抱いているタオルケットもいつの間にか元のサイズへと蘇り、亮の回復ぶりをしっかりと示していた。そうしてみると、気にくわないが有伶の言うとおりこの世界は亮のアルマにとって真実馴染む場所なのだろうと改めて感じ入るしかない。 事態はわずかながら光明を見せ始めたと感じる一方、だが未だ亮は有伶の声を聞き取ることがないでいる。 それは取りも直さず亮の心が他者を拒み続けているということの現れなのだろう。 あの日以来、3度、有伶との交信に成功したのだが、いずれもシュラと有伶のみのやり取りで終始し、亮は天から聞こえる声には軽口にすら答えることがなかった。 だからシュラは敢えて有伶の言葉を亮に伝えることはせず、ただただ二人の時間をのんびりと過ごしている。 何度も生樹を正常化するための訓練をと持ちかけられたが、全てシュラの一存で却下した。 とにかく今は大人の都合など無視し、安らぎの時間を亮に送らせることだけがシュラにとっての正義だった。 前回の交信で亮の回復に合わせ、少しだけクラウドリングの深度を弛めようかとの提案もシュラは拒否を唱えた。 今記憶を戻し、また亮のアルマが消えかけでもしたらと、その恐怖から怒鳴りつけるようにその提案を切り捨てたのだ。 だがそれに対し、有伶が強く言うことはなかった。最後に有伶と交信したのはもうひとつきも前のことになるが、その時彼が言ったのは、リアルではまだあの日から三日ほどしか経っていない──ということだった。こことリアルの時間のずれは大きくなるばかりのようで、研究局としてはかえって焦りが少ないようだった。交信が行われないことももしかしたら研究局側の都合があるのかもしれない。 とは言っても時折家の前に、必要だとシュラが独り言のように呟いた物資が転送されている所を見ると、あちらはあちらで音声は拾っているのだろう。 ここでは食事も睡眠も何も必要が無いらしいとの情報は得ているが、長い間人としての暮らしを過ごしてきた身として、ここでも同じ習慣を繰り返すことにより日常が保たれるという事実は重要だった。 何もなかったこの世界に、食料や衣服、ささやかな建築資材、日用品から絵本まで差し入れられ、どうにか生活は成り立っている。 これらのものをどうやってこの世界に転送しているのかは不明だが、あの煮えたぎる泉に投下でもしているのだろうか。 ひとしきりシュラの抱擁に酔いしれた亮が、ようやく顔を上げ、少しだけ涙目になってしまった瞳もそのままに小さく鼻を啜った。 「オレ、泣いてないもん。シュラが迷子になってたら大変だから、心配しただけだし」 「ん、そうか。ありがとな。亮は優しいな」 ふへへ、と気の抜けた笑みを浮かべる亮の目元に、シュラは優しくキスを落とす。 ちゅ、ちゅ、と甘いリップ音を繰り返すシュラに、うっとりと亮は瞳を閉じ、お返しとばかりシュラの頬へキスを返す。 シュラの蒼い瞳が愛しげに亮を映し、薔薇色に息づいた柔らかな唇の端へ己の唇を寄せた。 「ん……」 亮の吐息が切なく漏れ、何か言いたげにその唇が開かれると、シュラはくしゃくしゃと少年の髪を掻き回し、 「顔洗って着替えたら朝ご飯だぞ」 と白い歯を見せて笑った。 そう言われて初めて気づいたかのように、亮のお腹がぐぅと鳴る。 「……おなか、減った」 自分の腹の辺りに視線を落とし、情けなく眉を下げる亮の顔に、シュラの笑い声が重なる。 「だろうなと思った。朝ご飯、何がいい?」 「ベーコンと玉子の乗ったパンと、ぎゅうにゅう!」 「お? フレンチトーストじゃなくていいのか?」 「シュラのフレンチトースト、いつも焦げちゃうから、むりしなくていいよ?」 「……それは俺への挑戦状と受け取っていいな、亮。今日こそ、完璧なフレンチトースト食わしてやる」 わざと獰猛な顔でおでこを付き合わせると、亮は楽しげに笑いながらベッドの上を転がり、シュラの大きなサンダルを突っかけて逃げるように表へと駆け出していく。 家の前に作られた手こぎ井戸から出る水で、顔を洗っているのだろう。 「ご飯食べて着替えたら、今日は西の泉の向こうを探索に行こう」 「うん! とおる、おかしいっぱい持っていく!」 頭から濡れそぼった亮がぴょこんと顔を覗かせ、駆け込んでくるのを、シュラはタオルを手に迎え撃った。 小さな羽根を羽ばたかせながら、半ば浮かぶように飛びこんできた少年を抱きかかえ、犬でも拭くように髪の毛を掻き回す。 「おまえはどうしていつも顔を洗うのに頭までびしょびしょなんだ」 「ちゃんと洗ってるからだよ!」 「はいはい。そうだな」 苦笑しながら亮の髪を拭き終わると、シュラはキッチンセットの前に立ちフライパンを片手に慣れない男の料理に取りかかる。 戸棚の下に据え置かれたグレーの冷蔵庫は小型だが、一応冷蔵と冷凍に別れたものだ。 電源は必要ない。 ここでは“冷蔵庫である”という概念が大事なのであって、それさえ守られていればその通りの機能を発揮することが出来るらしい。 冷蔵庫を開ければ新鮮な卵と瓶入りの牛乳が、いつでも冷たく冷やされている。 他にも亮の好きな炭酸水や、シュラの好むガス抜きの軟水など、必要なものは大概備わっていた。 どれも資材が送られてきた最初のターンでほんの少量ずつ手に入れた物ばかりだ。だがそれらは数が減れば勝手に増え、当たり前のようにそこへ補充されることになる。 亮が見て、存在を確認し、必要だと判断された物は、この世界にあることを許されるのである。 亮のアルマが少しずつ回復するにつれ、世界は亮の望む形へ僅かずつ変異を始めている。 この小さな窟屋は今の亮ができる最大限の力を使った、亮にとってのささやかな城と言えるかもしれない。 「シュラ、オレも手伝おうか?」 最近亮は自分のことを「オレ」と称する機会が増えてきた。 少し前までは「とおる」と一人称に自分の名を使うことが多かったのだが、これは亮のアルマが徐々に成長していることを示しているのだろう。 シュラの一人称を真似して同じように「オレ」と呼んでいるのだと想像は付くが、以前通りの亮に近づく言葉遣いに、シュラの胸はじんと甘く痺れる回数が増える。 「オレが玉子と牛乳とお砂糖、まぜてあげる」 「じゃ俺はパン切るか。……ちょっと小さく切れば玉子の液が染み込みやすいんじゃねぇかな」 「あたまいい!」 キッチンで二人並んであれやこれや言い合いながら朝ご飯を作る。 フライパンにバターをたっぷり入れ、ガスレンジに火を付ける。 「この……火加減が難しいんだよな……」 フライパンの真横に屈み込み、炎の具合を見ながらつまみを調節するシュラへ、亮が不思議そうに声を掛ける。 「シュラ、自分の火で焼いた方が上手に焼けるんじゃないの?」 「ばか、それじゃ料理じゃないだろうが。手のひらで焼いて食うなんてのは、仕事で野宿するときくらいだ。安らぎが足りねぇ」 唇を舐めながら真剣な顔で火を微調整する姿に、亮は「へんなの」と笑った。 結局少し焦げてしまったフレンチトーストを平らげた二人は、ナップサックにサンドイッチやクッキーを詰めて、家を出た。 白いシャツとジーンズのハーフパンツを身につけた亮は、シュラの前を犬のように走って行っては戻ってきて、ぐるりと彼の周りを回りながら、今日の探索についての意気込みを語る。 ここを訪れた当初、ゴツゴツと乾き、ひび割れ、めくれ上がって、枯れた草一本すら見あたらなかった荒野は、今や青々と草の棚引く草原へと変貌していた。 高原などに見られる湿潤に寄ったステップ気候のような環境に近く、優しい風が草原を薙ぎ、草の絨毯が小波のような音色を奏で色を変えていくのは気持ちがいい。 窟屋から西へ1キロほど離れた場所にある泉は小さな円形プールのようなサイズで、水底の白い砂地から常に水を湧き出し続けている美しい場所だ。 アクアブルーに輝く水面のほとりには、色取り取りの花が群れるように咲き乱れている。 また、傍らには数本の樫の木が木立を作っており、その影に座って休むことも出来るようになっていて、ここは今亮にとって一番のお気に入りスポットと言ってもいいかもしれない。 「ねーシュラ、ちょっとだけ泳いでから行こうよ」 早速来たなとシュラは片眉をあげ、少し意地悪に「どうするかなぁ。探索に行く使命が重要なんじゃないのかなぁ?」などと嘯いてみるが、シュラ隊長の言葉をうずうずと待っている亮の表情に勝てるわけはないと己でも嫌と言うほどわかっていた。 「ちょっとだけ泳いだら、お弁当食べてからがんばるから!」 「……っふハハハ、お弁当食べてからじゃ、おまえそれ日が暮れるぞ」 「そしたらあしたまた、探検いけばいいよ!」 「ったく、しょうがないヤツだな。じゃあ今日は、泉の警備を実行するとするか、亮隊員」 「はいっ、たいちょー!」 明日、また行けばいい──。 その響きの心地よさに、シュラの表情は限りなく甘くなる。 明日。また明日。そのまた明日──。いつまでもいつまでも、こんな日々が繰り返されればいい。 切なる願いに胸が詰まる。 「シュラも早くー!」 気づけば泉のほとりに服を脱ぎ散らかし、パンツ一枚になった亮が泉に飛びこんでいる瞬間だった。 口の端を上げ、シュラも駆け出すと、木の根元へザックを置き、ジャケットもアンダーシャツも、そしてジーンズも脱ぎ捨て、同じく下着一枚になって泉へダイブしていた。 派手な水しぶきが上がり亮がきゃっきゃと笑う。 岸に近い辺りは深さも一メートルほどで、小柄な亮でも十分安全に遊ぶことができる。中央付近では少しばかり深くなるが、それでもシュラならば十分足の届く深さしかない。 湧き水はどこまでも透き通り、潜ればまるで空を泳いでいるような不思議な感覚にとらわれる場所だ。 「ちょっと冷たいな……。暖めるからそこで待ってろ」 シュラはそう言い置くと亮から少しだけ離れ、全身からカウナーツを放出する。 キンと冷えていた湧き水は、瞬く間に温水プール並みの暖かさに変じ、亮は気持ちよさげに泳ぎ始める。 「とおるね、あっちまでいって、帰ってくるのに挑戦する」 平泳ぎの要領でスイスイと進み出す亮にシュラも併走するように泳ぎ出す。 水泳もシュラがこの泉で亮に教えたものの一つだ。 最初は犬かきに似た奇妙な泳ぎしかできなかった亮が、今ではそれなりに形になった平泳ぎやクロールを会得している。 「お。じゃあ出来たら俺がご褒美に温泉作ってやろうかな」 「やったー! オレ、お風呂だいすき!」 どこまでも広がる草原の中、淡く蒼い泉に浮かびながら、シュラは前を行く亮の姿に目を細める。 時折シュラの存在を確認するように振り返り、目が合い微笑んでやると安心したようにまた泳ぎ出す。 この子はどれだけ孤独に耐えてきたのだろうと、その度にシュラの胸は痛んだ。 幼い頃は置いていった母親を待ち続け、今は思い人を待ち続けている。 いや、待ち続けていた──だ。 今の亮にはもう、待つ相手はいない。 待って待って待ち続けて、心を壊すほどに待ち続けることは、もう終わりなのだ。 シュラは待たせたりしない。 亮が望む分だけ慈しみを降らせ、亮が欲しい分以上に愛で充たしたい。 シュラの存在が欲しいというなら、例え肉体が滅んでも、この子のそばに寄り添い続ける。 ひとしきり泳ぎ、宣言通り泉の端から端まで泳ぎ切った亮は、上がった岸辺で持参した弁当をぱくつき、タオルで身体を拭いてもらいながら楢の木陰でうたた寝を開始する。 小一時間で目覚めると、シュラの用意した特製の温泉に瞳を輝かせて飛びこんでいた。 アルマがひび割れ、霞むように消えかけていたあの頃の亮はもういない。 見違えるように元気を取り戻した亮は、この一年、ずっと笑顔で過ごしている。 泉の水を摂氏40度まで暖めただけの温泉も、亮の大のお気に入りである。 バタ足をしながら岸辺に腕を添えていた亮の横で、シュラも肩まで浸かって息を吐く。 空は明るく、夕焼け空もまだ遠い。 亮を守るため──と言いながら、幸せに溺れそうになっているのは自分の方だとも感じる。 ふと気づくと元気に弾けていた水音が止んでいた。 「……、痛い?」 横に居たはずの亮がシュラの正面に回り込み、なくした左腕の付け根におそるおそる触れる。 肩から十センチほどを残して先を失った左腕の切り口は、赤黒くグロテスクな色をしているがすでに完全にふさがっており、触っても痛みはない。 時折まだそこに腕があるかのような錯覚に苛まれることはあるが、それもおいおい慣れて消えていくだろうと知っている。 「大丈夫だ。もう痛くねぇよ」 シュラは何も言わなかったが、シュラの腕がこうなった原因を亮はなんとはなしに察しているようだった。 シュラが良くない何かと戦って、腕をなくしてしまったこと。それが亮を守るためだったのだろうということ。 「今度悪い奴がきたら、オレが、やっつける。オレが、シュラを守ってあげるから、だから、シュラ、居なくならないで?」 伸ばしたシュラの足をまたぐように座り込んだ亮が、大きな瞳を揺らしながら見上げてくる。 「ずっと、とおると一緒に、いて?」 「……居なくならねぇよ。亮がもういらねぇって言っても、ずっと一緒にいてやる」 いつかと同じような台詞を唱えれば、 「いらなくなんかならないよ! いつもシュラと一緒がいいもん」 同じような答えが返ってくる。 泣き出しそうに揺れる瞳の際に口づけし、頬に口づけし、擦り寄せられる素肌を抱き寄せ、首筋に強く口付ける。 「ん……、シュラ……だいすき……」 そんな甘いグルーミングに身を震わせ、亮は自らシュラの唇に唇を寄せた。 「っ、シュラぁ、……ちゅ……もっと……」 甘い唇が触れようとする瞬間、ねだるように熱い息をつく亮の口づけを避けるように、唇の端をついばむと、ぎゅっとその細い身体を抱きしめる。 鼓動がドクドクと痛いほど胸を叩いている。 「……しゅら?」 不思議そうに身動ぎする亮の髪を撫でながら、震える息を吐く。 胸を叩く鼓動はそれだけでは飽き足らず、不埒な下半身までその血流を大量に押し流していた。 亮の唇の味を知ってしまったら、おそらく歯止めが利かなくなるだろうと、シュラはそう予感していた。 亮の全てを暴き、味わい、己をねじ込んで自分のものにしたいと、身体の全細胞が叫んでいるのがわかる。 有伶ですら前回の物資転送で、耐熱のコンドームを寄こしたほど、己の身体が切羽詰まっているのを理解している。 だが、それをさせない、歯止めのようなものがシュラの中に確乎としてあるのだ。 セブンスでの光景──。 それが未だシュラの脳裏に焼き付いて消えない。 大人達の欲望に食われ、引き裂かれ、真実の名まで奪われ、魂の尊厳すら踏みにじられた──。 あの時助けられなかった自分の歯がゆさと罪悪感がシュラの暴走を分厚い鋼鉄の堰のように、押し込めている。 「……っ、そろそろのぼせそうだな。上がってちょっと休んだら帰ろうか」 「うん! どんぐり拾って帰ろう」 身を起こした亮が微笑むと、シュラは眩しそうに目を細め、今一度その身体を抱きしめた。 膝の上に乗せた亮の肌はお湯で上気しうっすら桃色に染まり、シュラのつけた首筋の跡は、花びらのように赤く色づいている。 胸の二つの薔薇色の飾りはシュラの肌に擦られたせいかツンと尖って存在を主張し、ますますシュラののぼせに拍車を掛ける。 「シュラ? どうしたの? きもちわるい?」 「いや、いやいや、元気だぞ。うん」 「オレが、シュラみたく、もっとちゅっちゅってしたらなおる?」 亮の元気がないとき、シュラが啄むように降らせるキスを、亮はとても気に入っているらしい。 それを今度は自分がしてやろうとそう提案してくれているのだが、シュラは困ったように微笑むことしかできない。 「ありがとな。でも大丈夫だ。さ、上がろう」 亮の身体を岸へ抱え上げ、自分も岩場に上がって脱ぎ捨てた服に手を掛ける。 背を向けたまま素早く服を着ていくシュラに、後ろで亮が唇を尖らせる。 「ちゃんと拭かないとだめだよっ。濡れたまんまだと風邪引くっていつもシュラ言うのに!」 「俺は自分で乾かせるからいいの。亮はちゃんと拭くんだぞ」 「うー。なんかずるい」 ──このままずっと亮くんと過ごすなら、いつか一線は越えることになるよ。きっと亮くんからもそれを望むはずだ。 有伶が前回の交信で語った言葉を噛み締める。 一年と十ヶ月過ごした今、その言葉通りになるのも時間の問題なのではと思えてくる。 考えてみれば、シドと亮が過ごした時間よりも長く、濃密に、シュラと亮は共に居るということになるのだ。 それも、シドと出会う前の亮と共に──。 「準備かんりょーです。たいちょー」 「よし。じゃあ家に向かって出発!」 勇ましい声を上げ駆けだした亮の背中を眺めながら、シュラの表情は切なげに歪められた。 記憶を戻すなと有伶に怒鳴ったあの時──。 亮のアルマを心配する気持ちが膨れあがったことは確かだ。 だが本当にそれだけだったのだろうか。 亮に何か──誰かを──思い出させたくなかったのではないのか。 待ち人を思い出すことで心が壊れるのを防ぐため、という理由は正当性を持っている。 しかしもう一つ、大きな意味があるのだと、自分の気持ち故に重く、深く、わかってしまう。 「シュラ遅いよ、お腹減っちゃうよ!」 駆け戻ってきた亮がシュラの背中を押すように歩き出す。 じゃれ合いながら進む帰途は茜色に照らされ、夕日のように沈む月が二人の影を長く長く絡ませていた。 |