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「見てシド、このエビ生きてるよ!」 細い石畳の路地を革靴が軽快に跳ね回る度に、昨夜降った雨の名残の水たまりがきらめき、真昼の陽光に照らされて小さな虹を足下に掛ける。 鮮やかなオレンジ色のシェードが折り重なるように左右の軒先から伸びている市場には往来に人があふれ、店主達はそれぞれ商売に忙しいようだ。 ある者は客の若い女へ景気よくおまけのチリエジーノを房ごと付けて袋に入れ、ある者は客の要望に応えて牛肉をグラムで切り分けている。 活気に溢れた市場の光景──。だが、不可解なことに聞こえるのははしゃいだ亮の良く響く声だけだ。 時折強く吹き過ぎる海風がシェードの裾をはためかせて、さみしげな音を立てた。 亮は肩から提げた大きな麻袋の中をのぞき込み、そしてもう一度、斜めに立てられた戸板の上で所狭しと並べられた新鮮な魚介類に目をやる。 袋の中はもういっぱいで、トマトやらカボチャやらアーティチョークやらバナナやらレモンやら、大きな肉の塊から油の入った壺まで、あらゆるものがひしめいていて、とても元気に飛び跳ねるエビを入れるスペースはないようだ。 「だからそんなに一気に取るなと言ったんだ」 亮の苦悩を汲み取るようにシドは己の持つ袋と、亮のはち切れんばかりのずっしりとした袋を交換してやる。 意気揚々と大きなロブスターをつかんだ亮は、店主に構うことなく新しい麻袋へ放り込んでいく。 「だって全部タダだっていうし、全部うまそうなんだからしょうがないじゃん」 金も払わず袋に詰め込み白い歯を見せる亮の目の前で、店主はそれを咎めることなく――それどころか亮を見ることすらせず、別のお客との会話に興じているようだ。 ようだ――というのは、実際のところ、声は聞こえないからである。 声どころか、店主には明確な姿さえなかった。黒い人らしき“もの”の姿がそこにあるだけなのだ。 影だけが意思を持って動いているようで、明確なヒトとしての存在感が彼にはない。 店主だけではない。周囲にざわめく客たちも、彼らの懐を狙うスリの三人組も、道ばたでさばかれた魚の尾を咥え走り去る猫さえも、全てが影絵でできている。 この市場で色を持ち、存在として亮の手に触ることができるものは、売られている商品や建物、植物やその他舞台装置とでも言うべき存在のみである。 シドが言うにはここは“マルクト”と呼ばれる亮たちのいた現実世界と重ね合わせて存在出来る場所であり、この場所は本当にある、もしくはかつてあったどこかの世界そのものだそうだ。 そのため亮たちはこの場所にいてこの場所にいない者――であり、あちらの世界に干渉することはできない。 向こう側のアルマを持つ人間や動物たちと関係を持つことは不可能なのだ。 逆に向こうの人間達からも亮らを認識することはできない。 重ね合わされた別の場所ということは、こういった現象を引き起こすのだという。 亮には全くその原理も理屈も理解は出来なかったが、便利だけどなんだかさみしいなという漠然とした感情だけが残った。 「袋に直接入れてもいい?」 未だピチピチと尾を動かす大きなスズキを掴んだ亮がシドを振り返る。 もう既に直接エビを入れた後だろうと片眉を上げるシドに、亮は「そっか」と今さらながら気づいたのか、重たい魚を放り込んでいた。 「なんの魚かはわかんねーけど、こんだけ新鮮ならきっと美味しいよな。あと、塩とか醤油とかマヨネーズとか売ってないかな。調味料買うの忘れてた……。……、っあ! あれなんだろ???」 辺りの店を見回してた亮が弾かれたように駆け出していく。 二時間ほど前、車や家電を探しに行ったローチと別れ、二人でこのメルカートに足を踏み入れてからこちら、亮は片時もじっとしていない。 やれやれと後に付き従うシドを振り返ると、亮は「あれ、ニンジン? ニンジンだよな???」と、反対側の通りの店に積まれた橙色の塊に向かって飛んでいく。 この市場──メルカートは以前ここの主であった錬金術師の影響で、南イタリアの色が濃い。 特に島であるという地理的環境からシチリア周辺の風景にとてもよく似ていて、売られている商品もその地方独特のものも多いようだ。 ローチの向かった島の東側へのルートは新しく広がったイギリスや東京に似た景色が広がっており、シドにもわからない未探査の集落になる。 恐らく今回シドがこのセラの扉を開いたことにより、新たに創り出されたシドの意識が強い街に違いない。 「もう野菜は十分だろう。あまり持ち帰っても腐らせるぞ」 「ちっげーよ! これはアブヤドとアスワドにあげるニンジン。シドのじゃないの! 馬っていっぱい食べるんだろ? どのくらい持っていけばいい?」 特大のロブスターとスズキの入った袋の中へ真っ赤なニンジンを次々と入れ込む姿に、シドは表情を崩すことなく肩をすくめる。 「馬たちは食べなくても平気だ。ああ見えてライドゥホ能力で創られた“乗り物”であって生き物じゃない」 「へ?」 「前ここに居た錬金術師の置き土産の一つでな。あの当時は車なんてものはなかったから、ライドゥホが創るのは馬車が定番だったんだ」 「…………え、じゃ、あいつらニンジン食べないのか? リンゴとか、草とかも?」 目に見えてしょげかえる亮に、シドは視線を弛めると、近づいて髪の毛をくしゃりと撫でていた。 「餌、やりたいのか?」 「っ、……べ、別に、そういうアレじゃないけど、オレたちばっか食べたら悪いかなって思っただけで、せっかく美味しそうなニンジンだから、あいつら喜ぶかなって思っただけで」 餌をやりたいなどという子供っぽい欲求ではないと主張する亮の言葉は、ムニャムニャと歯切れ悪く潮風に融けていく。 「やってみればいい。必要ないというだけで、食べないわけじゃない」 「……ほんとか? 嫌がらない?」 「喜びはするだろうな。特に白い方は好奇心旺盛だ」 「……じゃ、じゃあ、ちょっとだけ持って行く……」 なぜか頬を少し赤らめた亮は、手にしたニンジンの他に、リンゴや梨を袋の中に入れ込んだ。 「なぁシド」 「ん?」 「修にぃに電話とか、できないかな。絶対心配してると思うんだ」 思いついたようにぽつりと亮が漏らすが、おそらくここに来てからずっと考えていたことなのだろう。 このセラが特別な場所であり、IICRから逃げてきた身なれば今自分たちの居る場所は誰にも知られてはならない──。そう知らしめられればられるほど、亮はその強い想いを言い出せずにいたに違いない。しかしこんな風に穏やかな日常に触れてしまえば修司の存在を思い出さずにはいられなかった。 「オレ、今元気に暮らしてるって。シドとローチが一緒に居てくれて、今日も市場で色んなもの見つけて、楽しく過ごしてるって直接伝えたい」 「…………」 見上げた亮の瞳は波打つように揺れ、必死の熱でシドに訴える。 だがそれを見下ろすシドは黙したままだ。 「まだこっちへ修にぃを呼ぶのは無理だってわかってる。でも、声聞くだけ。ほんのちょっと」 「……亮」 「一分でいい。ううん、十秒でもいい!」 静かに首を振るシドへ、「なんで!?」と悲痛な訴えを続ける亮に、シドはどう事態を話すべきか考えを巡らす。 亮の元へ向かう直前、シドは修司を環流の守護者から取り戻すためテーヴェの潜伏していたであろうセラへ潜り込んだ。 だが結果は惨憺たるものであった。 奪い取った棺に入っていたのは修司ではなく久我であり、IICR側から死亡を告げられていた修司の身柄は現在どこにあるのか──以前不明なままである。 IICRの言い分を聞くにつけ彼らの情報がフェイクに違いないとシドの勘は訴えていたが、現在成坂修司と連絡を取ることは不可能な状況だった。 しかしそれを今亮へ伝えることはできない。修司の現状を亮へ感づかれてはならない。絶対に。 「修司はIICRの監視下にある。連絡を取ることは出来ない」 「っでも、でも絶対帰るって約束したんだ! オレが生きてるってだけでも伝えられないかな」 「もう少し落ち着くまで待て」 「もう少しってどのくらい!? 一ヶ月? 一年? そんなに待ってたら修にぃ心配しすぎて死んじゃうよっ」 「IICRの現状をつかむことができれば、動きようもある。それまでもう少し、だ」 「そうだ! IICRのことならシュラに聞けば──」 「──っ、それは駄目だ」 必死に食い下がる亮をなだめるように言い聞かせていたシドの声音がわずかに強まる。 その微かな変化を敏感に感じ取り、亮は唇を引き結んだ。 「なんで駄目なんだよ。シュラならきっと教えてくれるし、オレたちのこと、IICRに喋ったりしない」 「シュラはIICRの人間でビアンコの腹心だ。あいつに甘い幻想で過度な期待をするのはよせ」 「そんなことない! シュラは──」 「おまえを疑似生樹に……、いや……。これ以上あいつを苦しめるなと言っている。あいつの立場も考えてやれ」 一瞬の沈黙が落ちる。 見開かれた亮の黒瞳が零れそうに揺れ、くしゃりと鼻梁の上に皺が寄せられる。 次の瞬間亮は駆け出していた。 「待て……っ」 そう言ってつかもうとした手が一瞬遅れた。 原因はわかっている。 ――樹根核の疑似生樹におまえを捕らえていたのはあの男だ。 つい言ってはならないもう一つの言葉を、シドは口にしそうになったのだ。 言わなくても良い事実だし、事実ではあるが真実は別にある。 シュラが疑似生樹に亮と共にあったのは、IICRの為でも、ビアンコの命だったからでもない。 全ては亮の為に――。あの男は命も、アルマすら捨ててあの場で亮を護っていた。 それをわかっていて、シドは事実という名のねじ曲げた真実を告げようとした。 己の狭量と得体の知れない感情に愕然とした。 走り去る小さな背を追い、二拍遅れでシドは石畳を蹴り出していた。 シドの言うことはもっともだと思った。その通りだと思った。亮はいつもシュラに甘えてばかりだと思った。 自分の欲求ばかり訴えてシドにもシュラにも迷惑を掛けている自分が恥ずかしくて、辛くて、悔しくて、でも修司に自分の無事を知らせたくて、どうしていいかわからず衝動のままメチャクチャに走った。 背後でシドが何か言ったようだが、それすら聞こえなかった。 どのくらい走っただろう。 肩から掛けた袋の中で跳ねる野菜や魚介類がずっしりと重く、肩に食い込むのを感じてようやく亮は足を止めた。 ぐるりと見回せば、白い石造りの建物が入り組んだ坂道の途中だった。 左右には覆い被さるように白壁がそそり立ち、前を見ても後ろを振り返っても、生きて動いている生物は何一ついない。 「……シド?」 シドの姿を無意識に探し、それがないとわかると亮の足は急に凍り付いたように動かなくなってしまった。 自分から衝動に駆られてシドの元から逃げ出したというのに、姿が見えなくなると押しつぶされそうな不安が亮の身体を縛り付ける。 狭い路地は幅の広い階段状になっていて、右手には数本の生成りのパラソルが開かれ、テーブル席が五、六席設けられていた。 カフェか何かだろうか、影達が幾体か席に座り午後の日差しの中わだかまって見える。 どこかの誰かであるはずの彼らは言葉を発することもせず、ただ陽炎のごとく身体を揺するばかりであり人間味は感じられない。 恐怖が亮の内で水かさを増し溺れそうになってようやく足が動き出す。 「シド、……っ、シド!」 自分の内側が滅茶苦茶だということだけがヒシヒシと感じられた。 ここに来て、シドもローチも居て、ずっとここに居ていいんだと言われて、もう大丈夫なんだと聞かされて──、亮自身全てがまた良い方向に行くような気がしていた。 でもそれは気がしていただけで、本当は、胸の奥底は痺れたままなのだ。 何もかも、どうすればいいのかわからない。 樹根核で出会った黒くて綺麗な人。 父親だと名乗ったその男の言ったことを亮は覚えている。 ルキの首筋に食い込んだ肉の感覚が今も指先に残っている。 よろよろと歩み出した亮の背後から笑い声が聞こえた。 聞こえた気がして、振り返る。 そこに居たのは、色の付いた人間だった。 シドとローチ以外でこのセラで初めて出会った色の付いた人間だ。 黒い髪、黒い瞳をした彼は白いシャツに黒いハーフパンツを履いて、白い翼をわずかに震わせ、亮の顔を眺めていた。 「っ──」 亮は金縛りにあったかのごとくビタリと静止するとその子供を眺め返した。 彼は真昼の陽光を浴びてチカチカと輝き亮の目を刺す。 全身が冷たくなり手のひらがびしゃびしゃになる。逆に喉の奥が乾いてひっついてしまうのを感じる。 それでも一言、擦れた声が零れ出た。 「おまえ、誰?」 『おまえ、誰?』 相手の少年も同じ問いを亮へ投げかけたまま口を噤む。 黙り込んだ彼の目は、冷たく無感情に亮を眺めている。 瞬きも出来ず貼り付いた薄い瞼が痙攣を始めようとしたとき、羽根を携えた少年の唇が小さく開く。 あいつが何か言おうとしている。 亮の聞きたくない何かを告げられる。 嫌だ。 嫌だ。 嫌だ! 「っぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!!!!」 サイレンのような絶叫を上げ石畳を蹴ると、亮は拳を振り上げて、力一杯打ち下ろしていた。 甲高い破砕音が静寂を切り裂いた。 南欧の強い日差しを浴びてキラキラと欠片が飛び散る。 しかし亮は何度も何度もその腕を振り下ろし、相手に拳を打ち据えた。 ──恐い。恐い。恐い。アレは、いる。アレが、出てくる。 白い光と赤い滴。 亮はその場にうずくまると頭を抱える。 耳鳴りがやまない。 アレは亮の中で息づいているというのに、亮は息も出来ない。 こともあろうにあいつを護るかのようにうずくまり小さく小さく身体を丸めるしかできない。 「……ぉる。とおる。亮っ!!!」 気づけばひんやりとした体温が亮を包み込み、亮はそれに縋り付いて震えていた。 やかましい音はまだやまない。 不意に亮の唇が冷たい何かに噛み付かれる。 「っ──、……ぅぁぁあっ、んん」 すると耳鳴りは途端にナリを潜め徐々にくぐもり、ボリュームを落としていく。 どうやら耳鳴りだと思っていたあれは亮の口から迸り続けていた己の声だったらしい。 「っ、ん……、ぅん……」 悲鳴に取って代わるようにくちゅりと艶かしい音が上がり、上がり続けていた亮の呼吸が次第に落ち着いてくる。 「Si……、大丈夫だ。ゆっくり息をしろ」 顔を上げさせられると、じっと見下ろす琥珀の瞳が亮を捕らえていた。 まん丸に開かれていた亮の瞳孔がゆっくりと焦点を結んでいく。 「……そう、上手だ。Si……」 抱え込まれ、柔らかに髪を撫でられる。 震えの止まらない亮の身体を抱きしめたまま、シドは何度も頬を撫で、こめかみに口づけを落とした。 「シ……ド」 「ん。どうした。大暴れだな」 柔らかなバリトンで囁かれれば、ようやく亮の口に意味のある言葉が上ってくる。 「あいつ、が、居た」 「あいつ?」 「そこに、いたんだ。背中に、羽根が生えた、髪も目も黒い、悪いやつが。ルキ、を、殺そうとした、いっぱい、人を殺した、あいつが、いた、から」 だから、追い払おうと思って──。 消え入りそうに呟く亮の言葉は、シドに伝える為ではなくもはや独り言のようにさえ聞こえた。 しかしシドはいちいち丁寧にそれに対し答えを返す。 「…………、それは気のせいだ、亮。ここにはおまえと俺とローチの三人しかいない」 「でも、あいつは、オレの中にいて、出てこようと、して……」 「ここにいれば出てこられない」 「…………、ホント、に?」 「ああ。ガラスに映った自分の顔にビックリしたんだろう。犬か、おまえは」 シドは何度も亮の米噛みに口づけを落とし、そちらに意識を持って行かせながら血にまみれた亮の腕を取る。 亮はカフェの硝子窓に映った己の姿に向かい拳を振り下ろしていたのだ。 何度も何度も。 そのせいで切り裂かれた両の腕からはポトポトと音を立て鮮血が滴り落ちていく。 「……でも、」 「知らない場所で迷子になって不安になっただけだ」 「……」 「勝手に拗ねて勝手に動き回るからこういうことになる。高校生にもなって迷子とは」 小さく笑い声を立ててやれば、亮はやっと安心したのか二度瞬きをしてシドの胸に頬をうずめた。 「……犬、じゃねーし、……迷子でも、ねーもん」 唇を尖らせ、目を閉じる。 極度の恐怖と緊張の糸が切れたせいで、全身が弛緩状態に陥っているようだった。 意識はあるが、思うように身体が動かせないらしい。 シドはその場に亮を座らせしがみついた腕をほどかせると、ずたずたに切り裂かれた腕から大きなガラス片を取り除いていく。 今もぽたぽたと鮮血が滴り落ち、ぼうっとしたままの亮は赤い滴が地面に溜まっていくのを眠たそうに眺めていた。 「この腕では帰りは馬は無理だな」 ゆらゆらと揺れていた亮は首を横に振り、「イヤだ。馬がいい」と我が侭を言う。 「これ、あいつらにあげるんだ……」 肩から掛けられた麻袋の口からニンジンを取り出そうとするが、血塗れの手は震え続けていてうまく物がつかめないようだ。 真っ赤に染まった麻袋を取り上げると服が汚れるのも構わず肩に掛け、シドが横抱きに亮を抱え上げた。 「それなら早く血を止めろ。そのナリじゃ馬たちがびっくりするぞ」 全ての荷を抱えたシドがゆっくりと坂を下っていく。 うとうとしながら亮は答える。 「うん……。オレ、血を止めるのは、……得意、なんだ……」 ゲボならではの自慢を口にしつつ、亮は少しだけ微笑んだ。 |