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「嫌だ。眠くないし寝ない」 そう言って亮は暖炉の前で膝を抱えた。 炎により赤く揺らぐ頬の色は暖炉の前だからであり、ここ数日色をなくした肌はより美しく炎の輝きを反射する。 今日は特に冷える。 南イタリア周辺の地中海性気候に酷似したこのセラの気温は、基本的に冬でも十度を下回ることは少ない。 しかし分厚いジャガード生地のカーテンに隔てられた窓の外は、今朝からずっと降り続く雪ですっかり世界を白に染めていた。 恐らく今もしんしんと乾雪が降り続いているのだろう。 「寝なくていいからせめてベッドへ入っていろ。今日は冷える」 座り込みを解かない亮の腋へ手を差し込み抱え上げようとするシドに、亮は身を固くし抵抗の構えを見せる。 「ここでいい。ここがいい」 あきらめのため息を吐きシドは亮を抱え込むように背後に座ると長い腕を巻き付け、小さな身体を抱きしめた。 キッチンダイニングからその様子を眺めていたローチは、出来上がったホットワインをトレーに乗せ二人のすぐそばに置くと、おやすみを言って自室へ戻った。 恐らくこのまま夜を明かそうとする亮に付き合い、シドも座したまま暖炉の前で時を過ごすつもりなのだろう。 そんなわがままをシドが受け入れるほど、ここ数日の亮は思い詰めている様子だった。 去年の今頃、特製のホットワインを二人に飲ませ、念願の三人遊びを達成したのが遙か昔のことのように感じる。 このループザシープへやってきてまだ一年と三ヶ月ほどしか経っていないが、すでに亮は気づきつつあった。 いや、本人の口から直接聞いたわけではないが、亮が吹き込んでいる日記からはここ数週間ほど、自分の身に起こっている正体不明の記憶断絶について語られることが増えている。 夏頃はまだこれをただの寝落ちだとする向きが見られたが、次第にその回数が増えるにつれ否が応でも気づかざるを得ない状況へ追い込まれてしまったのだろう。凍結されていると信じていた自分の中の存在が確かに未だ脈動し、己の内側から這い出ようと蠢いている――。 そしてそれを口に出さないのは、言ってしまった瞬間、疑惑は現実となり亮の世界を黒く塗り込めてしまうような恐怖に目をつぶっているせいだ。 その態度と心の声に、ローチは哀れみと興味の入り交じった賎陋な眼差しで亮を観察している。それに対するシドの動きも含め高みの見物としゃれ込んでいる自分自身がとても下衆な者に思え、珍しく自嘲した笑みを浮かべてローチは自室のデスクでノートを広げた。 「そんなにビビらなくても平気なこと、教えてあげたいんだけどねぇ」 たとえ内なるミトラが亮を食い破ろうとしたところで、羊が一周すれば再び封じられてしまうことを怯えきった亮はまだ気づいていない。ループザシープへの入国は、ギリギリの所で亮を生かすタイムリミットに間に合ったといえる。だが本人が口に出さない限り、そのことについて語るのもどうかとも思う。 亮は自分がミトラの陰に怯えているということを隠したがる傾向があるのだ。自分を弱く見せたくないという少年らしい感性と、シドに心配されたくないという意地が入り交じったそれは青臭くも健気であり、ローチはそれらが嫌いではない。 実際、確かに亮の意識断絶は増えていたが、それは去年とて同じ状況だったのだ。 昨年冬辺りからその状態は始まり、春から初夏にかけて加速度的に増えて真夏にはミトラがしっかりとした自我を持って顔を覗かせていた。だがそれも夏の終わりと共にリセットされる。 ミトラの言う通りこの世界の理から逸脱した亮には完全にその法則が適用されるわけではなく、その症状は少しずつ進んでは行くのだろうが――絶対的特異領域である原初セラの縛りは堅固であり、完全にミトラが亮を消し去り動き出すには途方もない回数羊を回さなくてはならないだろう。 シドは何度も亮に「何も心配などいらない」と言い含めているが、言葉足らずが板に付きすぎているあの男の説明では亮の心を穏やかにするまでにはいたっていない。 「今日で三日目の睡眠ストライキがいつまで続くか……」 トントンとペンで白いノートの罫をつつきながら、ローチは録音してある亮のボイス日記を手持ち無沙汰に再生する。 昨日もその前も、言葉少なでただただ「寝たくない」という内容を繰り返すだけの日記である。ローチの覚え書きノートのネタにするにはいまいち面白みのない内容だ。 だがふと――ある違和感を覚える。 亮の暗澹たる気持ちに影響でもされたように時折合わせ損なったAMラジオのような雑音が混じるのだ。 昨夜聞いた段階では気づかなかったほどの小さく、短い異音だ。 ローチの作り出したこのスマホ風粘土板には(実際ナウトゥヒーツ能力者により精製された超高額アイテムであるヒーツマテリアル・通称“欠乏粘土”を使って作成してある)、雑音をリムーブする機能も付いておりこのような電子的なノイズが混ざることなどあり得ないはずである。 僅かにその柳眉をしかめ、ローチはそのノイズ部分を何度も繰り返し再生してみる。 「なんだろね、これ」 ホワイトノイズに隠れるように、小鳥のさえずりのような何かが聞こえる。 しかも一箇所ではなく、何日かに分けて複数箇所に現れているようだ。 「…………」 何かにぴんときたらしいローチはスマホから流れるその音を、デスクから取り出したボイスレコーダーで再録音させる。 そうして手にしたレコーダーの旧式な押しボタンを何度かガチャつかせると、ゆっくりリロードボタンを押し直した。 果たしてそこから聞こえてきた音は――。 『出口』『兎』『亮』 いくつかの単語。 確かに亮の声で、それら何の脈絡もない名詞がボイス日記の合間に差し込まれている。 それも全て――逆再生で。 ノイズのカーテンの向こう側で、亮の声がボーカロイドのごとき無感情さで淡々と言葉を紡ぐ。 「っ――、」 ローチらしくもなく驚愕に目を見開き、息を詰めて渇いた喉に生唾を飲み込んだ。 亮が意図してこれを吹き込んだとは考えられない。 逆再生で聞き取れる音声を故意に出そうとしても、人間ならばどうしても不自然になってしまう。 しかし、今流れている声はNHKのアナウンサーもかくやというほどのなめらかさでローチの耳に届いている。 汗で滑る指先をこすり合わせ、ローチは亮の日記をさかのぼりノイズを探していく。 それら全てを同じように逆再生し、ノートに内容を書き留める。 『出口』『兎』『亮』――不思議の国のアリスを連想させそうな意味不明の単語の他に現れたのは次のものだ。 『乞う』『Sheep』『遣り方』『出る』『出たい』『亮』『教えろ』『出る』『亮へ』『亮へ』『亮を』『亮へ』『兎』『兎』『聞いているだろう』 ぞくりと――ローチの全身が総毛立った。 兎とは。この何度も現れる兎とは、自分のことだと直感した。 窮地に立たされた本物のウサギのように瞬間的に本能が悲鳴を上げていた。 亮と初めて出会ったとき、確かに自分は兎の格好をしていた。今も亮は時折自分を「うさぎさん」と呼ぶことがある。 亮の裏側から聞こえる声は、未だにローチを兎と呼んでいるのだ。 そしてその裏側のソイツは、ローチが亮の日記を盗み聴いていることを知っている。 「ヒェッ」 間抜けな声が口を突いて漏れる。 これは、亮の裏側から届くローチへのメッセージ――。 ビアンコの手腕により未だ亮の内へ縛り付けられた新世界の創造神が、まるで怨嗟にかられた幽霊のように幾度も幾度もローチへ語りかけていたのだ。 内容は噛み砕くまでもなくわかった。 『亮へこのセラから出る方法を教えろ――』 つなぎ合わせればこんな所だろう。 亮にはこのセラの出入り口がどこであるのかも、どんな手順を踏めばその門を開けられるのかも知らされてはいない。 ここの出入りの仕方を知っているのは、今ではシドとローチの二人だけである。 シドは絶対にそれを亮に教えたりはしないだろう。それをミトラは理解しているのだ。 可能性があるとすればそれはローチ、ただ一人。 「亮くんが知ってるだけで脱出できるってことなのか? 亮くんの意志は?」 ここに居る限りミトラは表に出てこられない。 かろうじて意識が表層に出てきたとしても会話することが精一杯で、亮の身体を動かすほどの力はない。もちろん亮のアルマを消すことも不可能だ。 それはこの一年で確定している。 確定しているはずだ。 「……もしかして、ビアンコの枷を抜け出す方法でも見つけたのか?」 呟いてはみるが全て推量の域は出ない。 ノートに記された単語の羅列を改めて眺め、 「……うん。ホラーだね」 と天井を仰ぐ。 その瞬間、隣室からシドの怒号にも似た叫び声がローチを呼びつけていた。 シドがこんな風に声を上げる理由は一つしかない。 ローチは立ち上がるとすぐさまリビングへ向かう。 ミトラからの頼まれごとをどうしようかと思案しながら。 |