■ 5-79 ■ |
雨の匂いだ、と亮は思った。 遠くから聞こえる煙るような音は、小さな雨粒がひそひそ話でもするように草の葉や花びらに降り立つ音だ。 寄せては返す眠りの波は心地よく、誰かの暖かな指先が髪を撫で、頬を撫で、唇の端を撫で、そうして額に柔らかな唇がそっと押し当てられ──。くすぐったさに目を開けようと試みるが、それでも魅惑的な眠りは亮の意識をそれ以上浮かび上がらせようとはしない。 代わりに肌に触れたタオルケットの温もりにしがみつき、幸せの香りをくんと吸い込む。 すると安心感でまた亮の意識はゆっくりと溶けていく。 どのくらい気持ちの良い朝の眠りを貪ったのか──瞼にちらちらと光が差し、痺れを切らしたらしい朝日が亮の目覚めを促した。 亮は黒い石造りのベッドから床へ足を降ろすと目を擦りながら辺りを見回した。 「シュラぁ?」 艶やかに光る黒い石の壁は窓から差し込む光を乱反射し狭い部屋の中に紗を掛けて、亮を包み込んでいる。 水を汲みに井戸へ行ってるのだろうか。それとも少し前から裏で作り始めた畑にいるのかもしれない。 最近は少しシュラの姿が見えなくてもパニックを起こすことがなくなっていた亮は、裸足のまま玄関の木戸を開け、土がぬかるんでいるのに気づくとベッド脇に置かれた靴を履きに戻った。 靴紐を結びながらちらりと左の足首を確認したが、そこにはもう籐で編まれた輪はなくなっている。 あの忌々しい鎖を引きちぎることをやってのけたのだと思うと足取りは軽い。 「シュラ、どこ?」 傘を差し駆け出した亮はぐるりと辺りを見渡す。玄関を出てすぐ脇に作られた手こぎ井戸のそばにはシュラの姿はない。 やっぱり裏かなと首を傾げた亮の耳に、甲高い金属質の音が長く棚引き聞こえてきたのはその時だった。 顔を上げ空を見る。 灰色に霞んだ雨空が瞬きほどの時間、チカリチカと青白く光った。 それから数秒遅れて遠雷にも似た轟音が尾を引くように空気を揺する。 見上げた亮の目が見開かれ即座にきびすを返すと部屋の中へ駆け戻る。 部屋の奥にある岩盤をくりぬいて作られた倉庫の中から一抱えもありそうなガンケースを持ち出した亮は、硬く閉じられた金具をこじ開け、中に収められた巨大な黒いハンドガンを取りだしていた。パイファーフェリツカ並みの威容を誇るその銃は一見ライフルかと見紛う大きさで、亮の手に余るサイズ感だ。 しかし亮の左手はそのグリップを迷うことなく握りしめると、極太のロングバレルを右手で掬い上げ、抱えたまま飛び出していく。 走る。走る。走る。また二筋の閃光が前方で瞬き、獣が吠えるような音が亮の鼓膜をつんざいた。 もつれそうになる足がふわりと浮き、いつしか亮は空を駆けてまっしぐらに進んでいった。 小さな翼は亮の身体を閃光の中心へと運んでいく。 ──また、あいつらが来たんだ。 奥歯を噛みしめ前方をにらみ据える。 いつも、亮の居ないときシュラに襲いかかってくる悪い怪物。 亮とシュラの世界の外側からやってくるそいつらは、あるときは近くの山を吹き飛ばしてシュラの服を焼き、あるときは花畑を消し炭にしてシュラの頬に傷を付けた。 だが一番は、ここに来て真っ先にシュラの左腕を奪っていった最悪の怪物。 亮が眠っている間きっとまだこの世界に慣れていなかったシュラは、その怪物との戦いで亮を護るために大きすぎる犠牲を払った。 その事実を知った亮は何度も何度も思ったのだ。 自分が今度はシュラを護ると。 なのにいつもいつも亮が眠っている間に全てが終わってしまっていて、シュラは亮に何も言わない。亮はシュラの戦いの痕跡を感じ取ると毎回それを問いただしたが、シュラは笑って「ちっちゃい虫が入り込んだだけだ」と大きな分厚い手のひらで亮の髪を撫でる。 ──今度こそ、オレがシュラを助けるんだ。 シュラから口酸っぱく「触るな」と言われていたハンドガンを持ち出したのもその確固たる意志の元。 ついに亮が世界で一番大好きなシュラを護ることの出来る日がやって来た。 前方五十メートル。黒い服と朱い髪。あれがシュラを殺しに来た怪物だ。 亮は空中で静止すると、ずっしりとした漆黒のハンドガンを目標の怪物へ狙い定め、──撃った。 萌黄色の光輝がマズルで膨れあがり、流星のように伸びていく。鴇色の雷が星の後を追い絡みつき、爆風が亮の髪を後方へ棚引かせた。 あまりの反動で亮の身体はわずかに後方へのけぞり、雷光は、気づいて身を躱した怪物の朱い髪をわずか一房焼いただけで空へと消えていく。 大地に転がり膝を着いた朱い髪の怪物がこちらを見た。 ドクリと心臓が脈打つ。 美しい顔立ちと紅く焼けた頬。触れるだけで切れそうな眼光。 見知らぬ獣は手負いだというのに震え上がるほどに恐ろしい形相で亮を見ていた。 心臓が壊れたように走り出す。 亮の瞳孔がきゅっと小さく引き絞られたが、亮自身、自分の身体の変化には気がつかない。 呼吸が震え、それを己から隠すように亮は叫んだ。 「シュラに近づくなあああああっ!」 絶叫と共に小さな翼が白炎を上げぶわりと膨れあがり、瞬時に一双の大翼と三双の副翼を形作る。 熱波が周囲の空気を巻き込み亮の柔らかな黒髪を吹き上げていた。 亮の背に息づく羽根がたっぷりと風を捕らえ、一度大きく羽ばたく。 鳥のように滑空しシュラの姿を炎翼で隠す位置へ滑り込むと、銃口を眼前の怪物へ向ける。 「シュラは怪我──してるんだっ。シュラをコーゲキする悪者は、オレが倒すっ!」 「──○○○っ」 魂が漏れるような音で怪物が何かを呟いた。 ぞくん──と、亮の背に甘い痺れが走る。 音は聞こえたのに、何を言ったのかはわからなかった。 三文字の音の並びが何を指すものなのか、亮には理解できなかった。 ただ胸を充たす洪水のようなうねりが開いた唇や瞬く眼から切なく溢れ出そうで、眉間に皺を寄せ、ぐっと相手をにらみ据える。 「○○○、オレダ」 「知らないっ、誰だおまえっ! おまえなんか、知らないっ!」 怪物の声を聴きたくなかった。 ミシミシと身体の奥で音がする。 亮の魂の底から響く音楽の奔流が弥増していく。 崩れそうだ──。 ──そうだ。崩れてしまうぞ。 ──このままでは崩れて溶けて消えてしまう。 肉体の芯が震え、亮は近づいてこよううとする怪物へ銃口を突きつけ続ける。 左手で握ったグリップが焼けるように熱くなり、人差し指の掛けられたトリガーにジュウと音を立て金色の星形が焼き付けられた。 「ムカエニ、キタ……」 泣き出しそうな怒りが亮の内側から膨れあがる。 この紅い髪の怪物は何を言っているのか。うるさい。黙れ。吐いて、叫んで、訳のわからない言葉を喚き散らしそうになった。 わからない。 わからない。 耳鳴りが酷い。 「嘘つきっ。オレを迎えになんて、誰も、来ないっ!」 ──そうだ。間違えるな。 男が手を伸ばしかけ、亮は一歩後ずさった。 その拍子に堪えていた異物が亮の瞳からぽろりと一粒、流れて落ちる。 背中から、暖かくて太い腕が伸び、亮の身体を背中越しに抱きしめていた。 シュラの優しい温度が熱く滾ったトオルの翼から炎を奪い取っていく。 亮はそれでも銃口を握る両手に力を込める。 ──おまえも、おまえの大事なシュラも、この怪物が食い殺す。 胸の奥底で声が聞こえた気がしたが、その声の主を考える間もなく世界は進んでいく。 怪物は亮に向け何かを訴えようとする。 「○○○ッ、オレハ──」 「うるさいっ、うるさいうるさいっ、おまえの声、嫌いだ! どっかいけ! 消えちゃえ! シュラは俺が護るんだっ」 だから──。 血の気を失い白くなった人差し指が、金星刻まれるトリガーを――引き絞った。 がくんと引き金が沈み、二メートルの至近距離から萌黄の雷光が迸る。 苦しげにこちらを見ていた紅い髪の怪物は、今度は避けることもせず静かに目を閉じた。 亮の放った緑の雷は男の上半身を飲み込んで、霧雨の煙る上空へと消えていった。 残された下半身がぼとりと倒れる。ぬかるみに茶色の水しぶきが跳ね、ちゃんとそこにある、肉の音がした。 見開いた亮の大きな目はその様を齣送りで捕らえていた。きょときょとと瞳孔を震えさせ、そして── 「っ、っ、あぁ、ぁ、あぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」 ──そうだ、もっともっと自分を解放しろ。 ──おまえを苦しめる全てをなかったことに。 ──最期はおまえ自身すら。 「亮っ、亮!」 びっしりと額に汗の粒を浮かせ亮は己の叫び声で目を覚ました。 冷たい何かに痛いほどに抱きしめられていた。 「ぁぁぁあああああっ、ぁっ、ぁっ、ぁあああああっ……」 それでも藻掻いてしまう身体を押さえつけ、耳元で誰かが何度も自分の名を呼ぶ。 「Sii、大丈夫だ。大丈夫」 振り上げた指先が何かに当たり、それを大きな手で押さえつけられると、瞼に、唇に、冷たい口づけが落とされていく。 叫び続けていた声ごと飲み込まれ、あやすように舌が差し込まれる。 「っ……、ぅ、ぅ……っ、ん…………っ、」 絶望的な罪悪感と死への欲求に我を忘れる亮の口内に、少し苦い煙草の味が広がったのはそれから数分掛けてのことだった。 良く知る煙たい匂い。 冷たくて乾いた手のひら。 目を開けると、シドが息を共有する距離で亮を見つめている。 ざ……と風が吹き、花の香りが亮の鼻腔をくすぐった。 世界は白く輝いていて、見上げれば青空の下満開の桜が二人を包み込んでいる。 「どう、しよう。……オレ、……シドを撃った」 「夢を見たんだな」 擦れた声にシドがゆったりと応える。 長い指先が額に貼り付いた髪を避け、額に唇を落とし、リップ音を立てて唇を啄んだ。 「あり得ない夢にすぎない。気にするな」 「オレは、迎えに来てくれたシドに銃を向けて――殺した」 シドの琥珀の瞳が揺れた。 何かを知っている目だった。 シドはきっとあの時のことを覚えている。 今見た光景は少し前に起きた現実か、現実に近い何かなのだと亮は瞬時に悟っていた。 亮とてソムニアだ。夢とそうでないヴィジョンの判断くらいは感じ取ることが出来る。 ここ三ヶ月続く過去をリプレイする悪夢はいつか亮が見た現実だった。そして今見た演戯も――それらと同じ線上にある何かだと亮の魂が察してしまっている。 「……っ。……いいや。おまえは、撃たなかった。トリガーを――引けなかった」 珍しく言葉を選ぶように、おそるおそる、シドが言う。 こんなシドを亮は見たことがなかった。 だからいいわけのように言葉をつないだ。 「だって、今度はオレがシュラを護りたかったから、だから――」 「…………」 シドは黙って聞いている。 だが、表情のない表情の奥に、いつかと同じ辛そうな影が落ちているのを亮は見てしまった。 「シュラは、オレのせいで、腕をなくしたんだ」 「そうか」 「ずっとオレを守ってくれた。一人きりで恐くてたまらなくて――、でもシュラが来てそばにいてくれた」 「……ああ」 「だからオレは……。ねぇ、シド。オレはシドを、撃ったんだ。――今、引き金を」 「…………違う。それは夢だ。おまえは俺を選んだ。だからここに居る」 「でも」 「もうこの世界以外のことは忘れていい。なにも必要じゃない」 囁く声は低く擦れ、夢の中のシドを思い出した。 シドが言うには――亮が見たアレはやはり夢で、現実のストーリーではシドは亮を撃たなかった。撃てなかった。――らしい。 今シドがこうして亮と共にあると言うことは、シドの語るそれが真実なのだろう。 言われてあの時を思い返してみれば、今まで失っていたはずの記憶が、生き生きとよみがえってくる。 焼けたフィルムが逆再生で元の鮮やかな映像を取り戻すように。真っ黒に塗りつぶされた板が清流で洗い流され、墨の下から見事な絵画が浮かび上がるように。 亮はあの時シュラに抱きしめられ、飛びそうになる意識がつなぎ止められ、トリガーを引こうと痙攣する指は力を失った。 シュラが最後に語った言葉。シュラからの熱くて泣きそうな初めてのキス。そして壊れんばかりに亮を引いた冷たい腕の強さ。 だけど、今しがた眠りの中でもう一度あのシーンを繰り返した亮は――恐怖に駆られ寂しさに怯え、全てから逃げるために引き金を引いた。 最後に聞こえたあの声は、なんと言っていたのか――。 「俺だけを見ろ」 だが思索の縁に落ちようとする亮の魂をつなぎ止めるように、琥珀の瞳が強く亮を見据えていた。 蜂蜜色の奥に閉じ込められた亮はぼんやりと己自身を見返している。 シドの赤いまつげが長く影を落とし瞳を伏せると中の亮も隠されてしまう。 瞳に映る自分すら見るなと。シドだけを見ろとそうこの男は言っているのだろうか。 亮の好きな遣り方でキスをされ、唇の端を食んだまま囁かれる。 「俺の声だけ聴け。俺だけを求めろ」 「ん……っ、ぁ……、し……、シド、だけ……? っ…………」 シドの唇が亮の首筋に寄せられ強く歯を立てられた。 一瞬悲鳴を上げかけた亮だが、それを飲み込むとシドの白い頬を撫でる。 うっすらと血が滲んでいた。 さっき暴れた時亮の爪先が付けた傷だ。 亮の舌がぺろりと赤を舐め取る。 「シドの、味、する……」 そう言うとシドはようやく目を細め、 「俺の血も肉も、魂も、全ておまえにやる」 そう言って小さく笑った。 「だから亮――」 膝に抱えたままの亮のシャツの内側へ冷えた指先が潜り込み、いつの間に脱がされたのか亮の下肢を覆っていた衣服の全てがパサリと乾いた音を立て春めいた草地へ落とされた。 傍らで心配げに見守っていた二頭の巨体はお互い顔を見合わせるとくるりと背を向け、桜の根元で草を食み始める。 「おまえの全てを寄こせ」 |