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窓枠に手を掛け眺め降ろしながらシドは紫煙を風に融かしていた。 猊下では新世界を宿す卵がせっせと洗濯物を干している。 少し湿った夏の風が大きなシャツと小さなシャツを同じようにはためかせ、庭に張られたロープに沿って飾られる二人分の生活を揺らしていた。 午前の淡い光を受ける白が木々の新緑に滲んで美しかった。 ひらひらと踊る布地の間を忙しなく動き回る亮は目一杯背伸びし、ロープにピンチを挟んでいく。 亮にせがまれてシドが張ったロープだが、こうしてみるとやはり少し位置が高かったなと思った。 不意に亮の姿がタオルの影に隠れる。 そして再び腕が伸ばされ新たな布きれが掲げられた。 まるで川に潜って魚でも追っているようだ。 「シド!」と川面から顔を覗かせた亮がこちらに手を振る。 少し身を乗り出してやると、自分の声が届いたことを良しとするように大きな声で先を続ける。 「アブとアズに餌やってくる!」 いつもと同じ行き先を告げると、くるりと背を向けシドの答えを聞く間もなく走り出していた。 あの馬たちは食べ物を必要としないんだと何度言おうが、亮は彼らへ野菜やら草やらを持って行くのをやめない。 餌をやる行為が必要なのは馬たちでなく亮の方なのだろう。 走り去る背中を見送ってからきっかり五分でシドは部屋を出る。 そろそろ餌やりも終わり馬を撫でながらどこかへ出かける算段でも彼らと始めている頃合いだ。 困ったものだと明るい溜息が出る。 一時もじっとしていられない亮は生まれてまだ十七年になるかならないか──。 こんな閉じられた小さな世界ですらキラキラと輝いてみえているのかもしれない。 少年はいっぱいに手足を伸ばし目を懲らし耳を澄ましてここで生きている。 二百五十年を超える時を過ごしてきたシドにはもうその頃の感覚はわからない。 ただわかるのは、亮のその輝きがシドにとって目を刺すほどに眩しくそして愛しいと言うことだけだ。 だからこそこの羊の柵の中では、好きなようにさせてやりたいと思っているが──夏は駄目だ。 亮のうちに巣くうミトラが最も大きくなる季節。 亮がこのセラへ飛びこんだ九月三日の前日こそ、亮のアルマが食い破られる可能性が最高潮になる日だ。 だからシドはこの季節、亮を片時も己のそばから離すつもりはない。 亮の精神が壊れない程度の自由は与えつつ、完全な束縛を完遂する。 馬小屋から聞こえるボソボソとした話し声と馬の嘶き。 亮はアブヤドとアズワド相手に何やら話し込んでいるらしい。 古びた木戸をくぐると厩舎の中さらに奥、馬たちの寝床の辺りで座り込んだ二頭の巨体と小さな影が文字通り鼻を突き合わせてうなずきあっている。 「亮」 声を掛けると小さな影が驚いた猫のように飛び上がっていた。 「シシシシド!」 「どうした。三人で悪巧みか」 そう言って馬たちに視線をやれば二頭ともさっさと立ち上がり明後日の方を向く。 首謀者である亮を見下ろすと身体に着いた干し草を払ってみたり俯いて指のささくれを剥いていたりと落ち着きがない。 わかりやすいリアクションの彼らに少しだけ首を傾け、やれやれとばかり亮の身体を抱き上げる。 一瞬暴れたがすぐに観念したように大人しくなった少年を腕の中に収め見つめると、少年も同じように見つめ返してきた。 潤んだような大きな黒瞳で見上げてくる亮はあざとさの塊だ。 両手で己のTシャツの裾を握りしめる様子は何か言いたげだとも思ったが、それ以上あえて何も聞かず、シドは亮を持って部屋へと戻る。 厩を出て踏みしめる草の匂いは青臭く、空は広く青かった。 シドと亮は洗濯物の川の中を進んでいく。 シド、と一度だけ亮が名を呼んだので、風を泳ぎながら髪を撫でた。 溜まりに溜まった洗濯物を干し終わり、ハーフパンツの左右のポケットから重すぎるお土産を取り出したのが十三秒前。 取り出した大きな人参を一本ずつ構え目の前の二頭へ差し出したのがほんの十秒前。 そしてもうないのかと鼻先で小突かれているのが今だ。 とっておきだったのに瞬殺だったな──とオレは天井を仰いだ。 「ごめん、それ最後のニンジンなんだ。ここんとこ、買い出しも行けてないからさぁ。……って……ちょ、顔はやめろよ!」 オレが嫌がるのをわかってやっているのか二頭は──いや、白馬のアブヤドは特に、意気揚々とほっぺを鼻先でつつき回す。 シドは彼らに餌は必要ないと毎回言うけど、この大騒ぎを見るにつけ、絶対にそんなことはないと思う。 外から蝉の声がミンミンシャワシャワ大音量で聞こえていた。 ここに来て最初の夏にはこんな風に家の周りで響くことはなかったのに、今年は特に五月蠅いくらいの合唱で辺りは賑わっている。 最初はそれがとても嬉しくてエアコンの冷気が逃げるのも構わず、部屋の窓を開けっぱなしにして夏の音を浴びて匂いをいっぱい嗅いだっけ。 シドが言うにはループザシープがオレに合わせて日本の夏っぽくしてくれてるのかもしれないそうだ。 それはオレにはとっても嬉しいことなんだけど──、でも夏が終わりそうになると寂しくなるのはどこにいても同じだ。 騒がしかった蝉の声は少しずつ減って、今朝は遂にツクツクボウシが鳴き始めた。 オレの中のミトラのことがあるから夏は今のオレにとって良くない季節で、だからこそシドは毎回ピリピリして今年は一歩も屋敷の敷地内から出ていない。 それなのにやっぱり長年の気持ちの波は変わることなく、夏が終わるのが惜しくなってしまう。 オレがガラにもなくぼんやりと黄昏れてしまっていると突然ハーフパンツの尻ポケが低い音と共に震えだし、オレはクソダサく身体を強ばらせた。 慌ててポケットからスマホを取り出して確認してみると、画面にどこかで見たことあるけど囓られていない林檎のマークが表示され光っている。 色んな所パクって作られてるのが面白くて今さらながら笑ってしまう。 このケータイに連絡を取ってくるのは一人だけ。 うんと、メールの形をしているくせに正確には連絡──じゃないのかもしれないけど、このケータイを造った張本人・ローチからのメッセージみたいのが時々こうやってやってくる。 内容はキッチンのこの棚にスパイスの予備があるだとか、掃除機は赤いヤツの方が吸うだとか、生活豆知識みたいのばかりだから、これはきっとメールじゃなくて時限式の置き手紙だと思ってる。 本当はオレとしては今どうしてるとかどこに居るとかそういう情報を知りたいし返事も書きたいんだけど──この偽iPhoneのメッセージアプリについてる返信ボタンはグレーのまま押せなくなっていた。 気抜けするメッセージを見て嬉しいような哀しいようなよくわからない気持ちになるのはなんか嫌だなぁと思うのに、オレは毎回それをすぐに開いてしまう。 シドに言うと取り上げられるかもしれないから、このことは言ってない。 ローチは今元気にしてるのかな。 アプリを開くといつもの画面が現れて、メッセージのタイトルがずらずらっと六つほど並んだ。 『スパイスの本の場所』『抹茶プリンレシピ』『カップ麺を流しの下の棚に入れるべからず』『お肉を柔らかくする方法』『僕特製カレーの作り方』 そしてオレの既読マークが付いたヤツの上。新着メールとして現れたタイトルは── 『1000日記念!のトロフィーを獲得しました!』 オレは一瞬首を傾げた。 千日記念って何の千日? オレたちがここに来てから? それともローチがここを出てから? 色んな千日が頭をよぎったけどよくわからないままそのメッセージを開く。 『おめでとうございます! 亮くんが日記を付けなくなって1000日が経ちました。 三日坊主よりは頑張りましたが、どうしたのかな? 日記、修にぃに見せてあげるのは諦めちゃった? もう付けることも忘れるくらい幸せの日々? 付ける気も起きないくらい退屈な毎日? それとも付けられないくらいアンニュイなのかな? もし最後の予想と同じ気持ちなら少しは役立つかもしれないプレゼントを用意したよ。 今まで色んなモノをキミにあげてきたけど──これが僕が出来る最後の贈り物だ』 ドキンと一度心臓が息をした。 贈り物? “最後の”って言葉が頭の隅に引っかかってたのにオレの指は先を求めてスクロールしてしまう。 予想もしていなかった。 だけど、何となくわかってしまっていた。 ローチの贈り物がなんなのか。 オレはこのときもうわかってしまっていたんだ。 『もしキミがここを出たくなったときの為の方法を教えてあげる。 きっとシドはここから永久に出るつもりはないだろうからね』 おでこから一粒汗が走り出し、ほっぺの上に道を付けて転がり落ちていった。 蝉の声が遠くに聞こえる。 『一つだけ注意点。 プレゼントのことはシドにもキミの中の神様にも知られないように。出て行くその数分前まで。 わかってると思うけど、シドに知られれば絶対に阻止される。 この世界を閉じられてしまう。 そして逆に亮くん自身が全部知ってしまったら──。つまり、キミの中の神様がやり方の全部を見てしまったら。 たとえキミの気が変わってここを出たくないと思ったとしても、きっと止まれなくなる。 キミの中のあいつに一瞬でも意識を奪われたらそれで終わりだ』 目で字を追ってるのに、ローチの声が耳に聞こえてきているみたいだった。 いつものように気の抜けた冗談ぽい話し方で、でもラベンダー色の目の奥は全然笑ってない。 急ぐようにスクロールしていたオレの指先は固まって、その先は一行ずつ震えながら動いていく。 白い林檎のアイコンがクルクルと回って画面の上で光っていた。 『だから──。 もし。 もしも、僕の知識が必要ないのなら──すぐにでもこの端末を壊して。 簡単さ。 キミのスニーカーのかかとで一撃だ。 もしも、僕の知識が必要なら──この先をスクロールして方法を読むといい。 長い長い夏休みが終わるよ』 「──っ」 オレは恐くなって電源を切った。 ローチに全て見透かされてるみたいだったから。 もしオレがここを出たらオレはミトラになってオレは消えて。 世界はリセットされて。 修にぃもシュラもルキも久我も俊紀も秋人さんも壬沙子さんもみんな溶けて無くなって。 人間はみんな一から創られて知らない世界になって。 何も無くなる。 オレも。 オレの大事な全ても。 だから絶対オレはここを出ない。 出たくない。 出られない。 出なければオレはずっとシドと一緒に居られる。 ここの外にはオレの大事なものもちゃんと残ってて、いつかみんなを助けにシドと一緒に出ていけばいい。 いつか──。 方法が見つかれば、いつか。 ローチがくれた最後のプレゼントは、オレが死ぬための唯一の毒薬だ。 そう思った。 思ったのに──。 オレはケータイの電源を切って木の柵をくぐりアブとアズの間に割って入ると、二人の寝床にダイブしていた。 誰にも見つからないようにフカフカの一番下へ偽iPhoneを突っ込んだ。 干し草の中は乾いていて焼いたパンみたいないい匂いがした。 顔を上げると二頭が不思議そうな顔をして見下ろしてたから、 「ケータイ預かってて。シドには内緒で」 って頼んだ。 アブヤドは「任せとけ」みたいな感じで鼻を鳴らし、アズワドが後ろ足で干し草をさらに積み上げてくれる。 「あのさ──」 オレの声が小さかったからか、二人は長い足を折り曲げオレを挟むみたいに座り込んで耳を寄せてくる。 アブの鼻息でオレの頭から干し草の欠片が散っていった。 「二人にわかるかどうかわかんないんだけど──」 ごにょごにょ男らしくない感じで口ごもってると、アズが黒い頭でオレの頭をごつんと小突く。 いいから言えって言われてる気がした。 「オレじゃないオレが来たときも、ケータイ渡さないで。 ううん、違うな。 オレじゃないオレが来たと思ったら──、ケータイ壊して」 二人は顔を見合わせると、オレに合わせてひそひそ声みたいな鼻息で何か話し合ってたみたいだけど、すぐに「わかった」って言うみたいにいなないた。 オレの中の神様はオレと同じ顔をしてるけど、なんか二人にならオレじゃ無いってわかる気がしたんだ。 「ローチの電話けっこう丈夫だから壊すときは思いっきり踏んづけて」 二人がうんうんと頷く。 「でも多分オレ自分で壊しに戻ってくると思うんだけど──。一応、覚悟が決まるまで」 また二人が頷く。 「亮」 突然頭上から降ってきた良く知る声に、オレはしゃがんだまま二メートルくらい飛び上がっていた。 あきれ顔のシドに捕獲される十秒前のことだった。 |