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目を開けるとふさふさとしたウサギの白い肩口が目に入る。 ぼんやりとした頭で身体を動かし首を巡らせると、見えるのはいつもの天井、ソファーの黒い背もたれ、そして白いウサギのぬいぐるみ。 体の芯がうだるように熱く、亮は何度か瞬きし、掛けられていたタオルケットを抱き寄せた。 「亮くん、おっきした? ……ん〜、まだおねむかなぁ」 亮の様子に気がついた秋人がデスクから声を掛けるが、亮は寝ぼけまなこのまま視線を泳がせると、ウサギとタオルケットを同時に抱え込み、うずくまるようにまた目を閉じる。 昼寝の後の亮はいつもこんな調子で、ぼんやりとした状態が一時間近く続く。 しかしその後まるでエネルギー充填完了しました! と言わんばかりに元気復活するので、秋人もレオンもそれを気にしなくなっていた。 「宿題こなし中悪いけどレオンくん、バイタルだけ計ってあげて」 資料室で壬沙子の残した宿題に追われていたレオンは、秋人の要請に道具を抱えて現われる。 昨夜突然壬沙子から「明日の夕方そちらに帰るから」と国際電話を受け取ったレオンは、今になって慌てて言いつけられた資料整理に追われているのだ。 これはあこがれの日本に来て連日遊びまくっていたレオンの自業自得なのだが、どうやら徹夜でもしたらしく、結んだポニーテールから飛び出したほつれ毛が痛々しい。 しかし亮の健康管理をすることについてはやぶさかではない。 まさに心のオアシスとでも言いたげにレオンはいそいそと、ぼんやりしている亮の手を取り、血圧を測り始める。 「うーん、どうしちゃったかなぁ、亮くん。ちょっと熱っぽいね。気分は悪くない?」 桜色に染まった亮の頬をそっと触ると、レオンが心配そうに覗き込む。体温計の数字は七度五分を差していた。 しかし亮には特に辛そうな様子はなく、ただ再びうとうとと眠りの境界線上をたゆたっているようだ。 「上で寝かせようか。一応言いつけられた仕事はほとんど片付いたし、私が付き添ってるから――」 レオンがそう提案すると、秋人もうなずく。 「そうだね。ソファーで休むよりベッドへ寝かしてあげた方がいい。それに風邪ならこじらせたら大変だしね」 秋人の確認をとるとレオンは亮の身体を抱え上げていた。 いつもシドが軽々と片腕で抱え上げる亮であるが、それでも四十キロはある。 秋人の目には、ひ弱な頭脳派のレオンにはなかなかの重労働なように思えた。 「レオン君、大丈夫? 腰やらないでよ?」 「あ、ああ、大丈夫、こう見えても私もソムニアだよ。普通の人間と一緒にしてもらっちゃこまるなぁ」 余裕の笑いらしきものを口の端に浮かべて見せたレオンは、両腕でお姫様抱っこに亮を抱え、えっちらおっちらとおぼつかない足取りで部屋を出て行く。 「――ソムニアでも色々だなぁ。奥が深いや」 秋人の脳裏には、いつも軽々と亮を抱え上げていた壬沙子の姿が浮かんでは消え、レオンの恋路に一抹の不安を覚えたのだった。 レオンはシドの寝室につくと亮を「どっこいしょ」と極めて日本人くさいかけ声と共にベッドへ降ろす。 腰に手を掛けぐーっと伸ばしながら、「はーっ」と大きく息を吐く。 「レオンせんせい、だいじょうぶ? とおる、おもたかった?」 いつもと違うイマイチな運ばれ心地ですっかり目を覚ましてしまった亮が、心配そうな眼差しを向けていた。 「ああ、いやいや、平気だよ。亮くん一人くらい、レオン先生にはどーってことない」 レオンにも男としてのプライドというものがある。 あのシドに腕力で張り合うのもどうかとは思うのだが、それでもちびっこになった亮の前で、自分がシドより劣っている姿を見せるのは心の奥底で許せないものがあったのだ。 このままではレオンは亮の中で『車の運転もできない、ひ弱なもやし先生』という設定が根付いてしまう。 「それより亮くん、具合はどうかな。頭痛いとか気持ち悪いとかあるかい?」 まだ若干息を荒げながらそれでも爽やかな笑顔で毛布を掛けてやるレオンに、亮はフルフルと首を振り、それほど気分が悪いわけでないことを告げる。 しかし視線を泳がせ、もじもじと足を動かしたり毛布の裾をつかんだりと、その様子はどこか落ち着きがない。 「どうしたのかな? おトイレいく?」 「っ、ちが、ちがの! お、おトイレいかないの!」 ベッドの端に座り亮の額に掛かる髪をよけてやるが、やはり指先に触れる体温が若干高いことが気に掛かる。 亮はレオンの顔を見上げたり、反対側にある窓の外へ視線を走らせたりとやはり落ち着かない様子だ。 「亮くん?」 「……ぅ、ぅさぎ、さん――」 亮の唇が、聞こえるか聞こえないかのささやかな声を生み出した。 レオンは耳を寄せるともう一度問い返す。 「なに?」 「し、白ウサギさん、おいてきちゃったから、とおる、おひるねできない……」 消え入りそうな声で亮はレオンにそう告げていた。 可愛い唇を少し尖らせ、拗ねたような上目遣いで見上げる円らな瞳は、一種の兵器だ。 そして、ウサギが居なくては眠れないということが、亮の男の子としての意識には『恥ずかしいこと』と捕えられているのか、言い終わった後の亮は赤い顔でぷいっと横を向いてしまう。 ベッドの中の小さな生き物は、恥ずかしいことを言わされた屈辱感と、やっぱりウサギがいないと落ち着かない不安感で、得も言われぬ切ない表情になってしまっていた。 レオンの目は瞬く間にシュシュ目に変わり、『うはーwもみくちゃに撫でくりまわしたいぃ!』と言う欲望が心の中で吹き荒れる。 「ウサギさんか! そうだね。亮くんと白ウサギさんはお昼寝の時はいつも仲良しだもんね?」 そう念を押されると、またまた亮は顔を赤くし、顔を半分毛布の中に埋めてしまう。 「白ウサギさんはぬいぐるみじゃなくて、お使い白ウサギさんだから、おとこのこでも持ってていいんだよ! ホントだよ!」 毛布の中で必死にもぐもぐ言う亮に、レオンは「わかったわかった」と髪を撫で、立ち上がっていた。 「じゃあレオン先生が今から白ウサギさん、連れてきてあげるから、そしたらお熱下がるまでお休みできるかな?」 「……うん、できるょ」 小さな声で答えた亮に「よし。ならすぐ取ってきてあげるから、いい子で待っててね」とレオンは笑顔でうなずく。 「レオンせんせぇ、……ありがとぅ」 恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに亮は小声で言うと、頬を綻ばせた。 その笑顔を同じく嬉しそうに見つめると、レオンはもう一度亮の頭を撫で足早に部屋を出て行く。 寝室の扉がレオンを吐き出し閉じられたとき、ふと窓にゆったりと丸い影が流れていく。 亮は反射的にそちらへ顔を向けると、そっと身体を起こしていた。 亮の黒くて大きな瞳に、白くて丸いぴかぴかしたものが映り込む。 亮のよく知る雫のようなあの形。 ふわふわ浮かんでドロップみたいな綺麗な色。 うさぎからの最後の風船が、今、窓の外で浮かんでいた。 それは亮を誘うように二度、上下に揺れると、窓から離れていく。 「っ、まって!」 亮は呟くと足をベッドから下ろし、窓へ駆け寄るとガラス戸を開けて手を伸ばす。 しかし風船はビル風に呷られているのか、あっという間に道路の向こうへと離れていき、亮の手は届かない。 「――だめ、いっちゃ、だめ」 窓から風船を捕まえることに見切りをつけると、亮は部屋を飛び出していく。 「しゅうにぃの風船、しゅうにぃたすける風船……」 道の向こうまで行けばきっと風船を捕まえられる。 靴を履くこともせず裸足のままで、亮は廊下を走り、階段を駆け下りていた。 熱のためおぼつかない足取りで、必死に亮は走る。 修司を助けるため。 父さんと修司をケンカさせないため。 あの白い風船は絶対捕まえなくてはいけないのだ。 途中、二階まで降りたときに、レオンや秋人の顔が浮かび足が止まる。一緒に風船を探してもらおうかという考えが巡ったのだ。 しかし、うさぎの言葉が蘇る。 ――誰にも内緒で捕まえないと、風船は消えちゃうから気をつけようね。 そうだ。 亮は一人で風船を捕まえなくてはいけない。 修司を助けられるのは、亮一人だけなのだ。 亮は再び走り出す。 |