■ 3-7 ■ |
「こっちだよ」 そう声が聞こえた気がした。 見下ろせば腕の中の白いウサギが、ツヤツヤの赤い目をくるんと回し、亮の顔を見上げている。 ラジオの電波みたいなざらざらした音がずっと聞こえていた。 気がつけば腕の中のウサギは、いつの間にか亮の足下をぴょんぴょんと跳ねながら前へ前へと走っていくところだった。 ざらざらした音が耳障りで、亮がぶんぶんと首を振ると、首元で金属の擦れる音がする。 シドとおそろいのネックブレスだ。 首輪は嫌いだけど、シドと一緒なら平気だ。 シドと一緒なら、嬉しい。 シドがかっこいいから、亮もかっこいいのだ。 一人で勝手に外してはいけないと言われているその首輪を、亮はそっと指先で触れてみた。 シルバーの手触りがひんやりとして、少しだけシドの体温を思い出す。 「こっちだよ」 もうずっと先を跳ねているウサギが同じ言葉を繰り返す。 レオンのくれたぬいぐるみは随分と先を急いでいるようだった。 「まって、ウサギさん」 亮も走り出した。 ずっと音が聞こえている。 ザァザァ……ザァザァ… ザァザァ…ザァザァ… 突然、音がやんだ。 湿った風に髪の毛が少しなびく。 頭のずっと上にはざわざわ言う緑の天井。 淡くミルクがかった空気に、空から幾筋も光のが差し込み、森のずっと遠くの方までちらりちらりと揺れている。 たっぷりと重たい空気を思い切り吸い込めば、下生えの青い匂いに満ちていて、亮は肺の奥まで緑色に染まってしまいそうな気がした。 ここはどこだろう? ぐるりと首を巡らせてみるが、どこまでもどこまでも続く深い森は亮の記憶にない場所だ。 セブンスの森はもっと寒くて、立ち並んでいる木々も葉っぱがツンツンしていた気がする。 しかしここは暑くも寒くもなく、周囲の木々はどれも丸く可愛らしい葉っぱをしている。 首を傾げた亮は、ふと自分の手に真っ赤な風船がつながれていることに気がついていた。 右手を動かせば、それに合わせてふわふわと赤い風船もついてくる。 知らない風景に不安になっていた亮は、それで少しだけ元気が出た。 「こっちだよ」 また、ぬいぐるみの声が聞こえた気がした。 しっとりとした緑の絨毯の上を、亮の白いスニーカーが進み始める。 手にした風船の紐を握りしめ、恐る恐る進む亮の目の前に、大きな椎の木が現われたのはそれから十歩も歩かないうちであった。 森の中に現われた小さな広場。 その中央に、左右に目一杯枝を張り、こんもりと山のように葉を茂らせた、一本の巨木が立っている。 大人が十人手をつないでも囲みきれないような太い幹は、何本かの根から絡み合うように伸び上がる複数の幹からできているようだ。 その幹には中央に大きな空洞が開いており、亮が近づいて見てみると、中には同じく木製のテーブルやら戸棚やらが使い勝手良く配置されている。 優しい黄緑色の芝が周囲を囲み、そのまま幹の部屋の中へも絨毯のように敷き詰められていた。 「わぁ……、すごい!」 秘密基地みたいなその家に、亮は興奮を抑えきれない。 こっそりと中を覗き込むと、そろそろと中へ足を踏み入れる。 入り口の反対側の壁にも大きな窓があり、部屋の中は決して暗くない。 左手奥には別の部屋への扉や暖炉などもあり、中から見るとここが大きな木のうろの中だとは信じられないほどだ。 部屋中央には水色に塗られた木の四角いテーブルとイスが二脚。 右手には真鍮製の水道と、ぴかぴかに磨かれた白い石の流し台がある。 どうやらここはダイニングキッチンといったところなのだろう。 亮は、流し台の横に置かれたたくさんの籠の中に、小麦粉の袋やにんじん、たまご、冷たいミルク瓶にバター、もも、りんご、オレンジ、いちご、ラズベリーにブルーベリー……とにかくたくさんの食べ物が山盛りになっているの見つけた。 その中で艶やかに光る大きなサクランボを一つ、思わずつまみ上げる。 「 ♪ 」 赤くてオレンジでぴかぴかして綺麗で、亮は嬉しくなって、ぱくりと一粒頬張っていた。 「 ! 」 ぷちぷちとした皮の中から蜂蜜みたいに甘くてちょっと酸っぱいたっぷりとした果肉があふれ出し、いっぱいの果汁を滴らせて、口の中はサクランボと初夏の香りで抜けるほどに満たされる。 亮はあまりのおいしさに大きな目をくりくりとさせた。 種を手にだし、ぽいっと出入り口から外へ投げれば、緑の芝生の上をころころと転がっていく。 亮はもう一個、もう一個とサクランボを口に運び、次々に種を外へと放り投げた。 気がつけば籠の中溢れんばかりにあったサクランボは、もうすっかりなくなってしまっている。 手に触れるフルーツの感触がなくなり、そこで初めて亮ははたと動きを止めていた。 「………どうしよぅ」 ほんの少しなら、こんなにたくさんあるんだから大丈夫だと思ったのだ。 ところが、ほんの少しどころか、亮は籠の中のサクランボをほとんど全部平らげてしまっていた。 勝手に家に上がり込んだ挙げ句、人の家のものをめいっぱい食べてしまったのだ。 急にさっきまでのご機嫌にかげりが見え始める。 見つかったら怒られる。 でも、こっそり帰ったら泥棒だ。 やっぱりちゃんと謝らなくてはいけない。 亮が下を向いてしまったその時。 バタンと大きな音がし、入り口の扉が閉じられていた。 びくりと顔を上げた亮の前には―― 「こんにちは、とおるくん」 大きなピンク色のうさぎが鼻先をひくひくさせながら立っていた。 ふさふさの桜色の毛。 白いひげはぴんと横に跳ね、アメジスト色の瞳は深い海のようで吸い込まれそうだ。 うさぎの身体は人間のようにオーバーオールを着てはいるが、ずんぐりとしていてやっぱりうさぎっぽい。 長い耳はぴんと立っていて、時折思いついたようにアンテナみたいに動かされる。 「――こんにちは、うさぎさん」 亮は目をぱちくりさせながら応えた。 うさぎがしゃべったことに、少なからず驚いているようだ。 「どうしたの? そんな顔して。僕、なにか変かな」 うさぎは自分の身体をぐるりと見回すと首を傾げてみせる。 「だって――、だって、うさぎさん、前と違うんだもん」 「そうかな? 同じ服だよ?」 この間風船をくれたうさぎ。 そのうさぎは確かにピンク色で、声も今と同じ優しくて甘い音色だった。 しかし、あの時はもっとマンガっぽくて、公園で出会うぬいぐるみみたいなうさぎだったのだ。 今目の前にいるような、本物のうさぎとは少し違っていた気が亮にはするのだ。 「そうか。きっと、あれだ」 うさぎは唐突にぽんと手を打ち鳴らすと、閃いたように一人何度も頷いてみせる。 「亮くんのお陰で、僕、呪いが少しだけ解けたみたいなんだ」 「……のろい?」 「そう。僕は本当は悪い魔法使いに呪いを賭けられたうさぎの国の王子なんだよ」 「……うさぎの王子さま、なの」 「そう。悪い魔法使いのせいで、ヘンテコなうさぎにされて、国にいられなくなったんだ。魔法が少しとけたお陰で、ちょっとだけ元の姿に近づいたのかも知れないな」 うさぎはヒゲをひくひく動かすと、嬉しそうに亮に手を差し出してみせる。 「ほら、見て見て! 手だけはもとの僕に戻ったんだよ?」 見ればうさぎの手は、肘の辺りから毛が薄くなり、しなやかな白い人間の腕に成り代わっていた。 長くすんなりとした指先は大人の男性のものではあるが、陶器のように美しい。 「人間の子供と仲良くなれれば、僕の呪いはとけるらしい。でも、ずっとずっと長い間、僕は人間の子供に会った事なんてなかった。だってうさぎの国は人間の国からものすごく離れたところにあるんだからね。だから、亮くんと会ったのは、僕が国を追い出されてから千年と三日目のことだった」 「せんねん!? そんなにずっと、ひとりだったの? おともだちは?」 「ともだちなんていないよ。だってあんなヘンテコなうさぎ、だれも相手にしてくれないもの。ずっと、一人。一人で人間の子を探して旅をしてきたんだ」 「そっかぁ。じゃあ、とおるが、はじめてのおともだち?」 亮が少し哀しそうに首を傾げてみせると、うさぎはうなずき、しゃがみながら顔をぐっと亮へ寄せる。 「そう。亮くんが、僕の初めての人間のお友達だよ。だから、キミにまた会えるように、僕がお使いをキミのところへ寄越したんだ」 「おつかい?」 「小さな白ウサギがキミのそばに行っただろ?」 うさぎの視線の先を追うと、玄関の横に、白いウサギのぬいぐるみがころんと横になっていた。 亮が昼寝の時に抱いて寝ているウサギである。 「僕のお使いウサギをお昼寝の時は必ず抱っこしてて欲しいんだ。そうしたら、また、こうやって会える。……もちろん、亮くんが僕に会いたくないなら仕方ないけど、僕はキミしか頼る友達がいないんだよ。キミがいなくなったら、また僕は千年と三日、一人で旅をしなくちゃいけない」 千年と言えば、明日の明日の明日の明日より、もっともっと先のことだ。 またそんなに長い間、独りぼっちになってしまうなんて、悲しくて怖くて、きっと亮なら耐えられない。 「のろいがとけたら、またうさぎさんの国に、かえれるの?」 「そうだよ。そしたら僕はまた国に帰れる。そして亮くんは、風船でお空を飛べるようになる。この風船は、僕の呪いが解ける度に一個ずつ、生まれてくる魔法の風船だから」 「だから、だれにも言ったらだめなんだね」 「そう。二人で内緒で呪いを解かないと、僕の身体はまた元通り。キミの風船はしぼんじゃう」 亮は黒い瞳を大きく見張ると、勢いごんで「とおる、ないしょにできたよ!」と報告をしていた。 うさぎは嬉しそうに大きな体を揺すって笑うと、鼻先を動かして風船を見上げる。 「わかるよ。だからこうしてキミの風船は元気に浮かんでる。僕はキミにお礼がしたくて、キミともっと仲良くなりたくて、こうしてキミを僕の家に招待したんだ」 「……でも、ごめんなさい。とおる、うさぎさんのサクランボ、食べちゃったんだ。ほんとは、いっこだけにしようとおもったのに、おいしくて、いっぱいたべちゃったの。ごめんなさい」 亮は思いだしたようにちらりと籠へ視線をやると、しょぼんと下を向いてしまう。 うさぎは少し驚いたように籠を見ていたが、すぐにひげをぴくぴくさせると、「そっかぁ。食べちゃったのかぁ。……僕、亮くんのためにフルーツタルトを作ろうと思ってたのに、サクランボ、先に食べちゃったのかぁ」と、大きな耳を横へぺたりと垂れ下げていた。 どうやらうさぎも亮と同じくらいしょんぼりとしてしまったらしい。 亮は慌ててうさぎの鼻先を撫でると、何度も「ごめんね、ごめんね」と謝った。 せっかく自分のためにタルトを作ってくれるつもりだったうさぎに、亮は良くないことをしてしまったのだ。 うさぎは大きな体でどさりと床へ座り込むと、アメジストの瞳から、ぽろりと大粒の涙をこぼしていた。 透明な雫が、桜色の毛並みに覆われた頬の上をころころと転がり落ちていく。 ビックリした亮はうさぎの顔を覗き込むと、自分も泣きそうになりながら、一生懸命うさぎの鼻先を撫でた。 耳の長さを合わせると優に二メートルを超すうさぎは、ゆかにぺったりと座り込んでいても亮より少しばかり高い位置に顔が来る。 大きな体でメソメソと泣いてみせるうさぎの涙を、亮は自分のシャツの裾で拭いてやった。 「これで、僕、もう亮くんと仲良くなれなくなっちゃったんだ。サクランボのないフルーツタルトなんて、レタスの入ってないサラダと一緒だもの!」 「そ……、そんなことないよ! いちごだって、ももだって、まだいっぱいあるから、へーきだよ! それに、サクランボはサラダなら、レタスじゃなくてプチトマトだとおもうから、へーきだよ」 亮はうさぎの膝元にしゃがみ込むと、必死に説得にかかっていた。 「そうかな。サクランボはレタスじゃないと思う?」 うさぎは少しだけ耳を持ち上げると、膝に座った亮にそう聞いた。 「うん。サクランボはレタスじゃないよ」 説得はうまくいきそうだ。 「サクランボはプチトマトかな?」 「うん。サクランボはプチトマトだよ」 うさぎの耳がまた少し持ち上がった。 「じゃあ、亮くんは、サクランボがなくても、僕と仲良くしてくれる? プチトマトのないサラダでも我慢してくれる?」 「うん。とおる、なかよくできるよ? プチトマトなくても、とおる、へーきだよ?」 「ほんとに?」 「ほんとだよ」 「じゃ、僕が亮くんをナデナデしても、怒らない? なかよしなら、ナデナデしても噛みついちゃだめなんだよ?」 「とおる、かみついたりしないよ!」 亮はうさぎの涙を止めるために、精一杯力説した。 うさぎはそれでやっと安心したのか、ふさふさのほっぺを緩ませて、照れ笑いを浮かべる。 「じゃあ、僕も亮くんがナデナデしても、かみつかないことにするよ」 亮はうさぎの言葉にぱっと表情を明るくした。 うさぎは亮の身体をそっと抱えると、自分と向かい合わせるように膝の中へと迎え入れる。 「僕のおムネ、ナデナデしていいよ。自慢の毛並みだから、亮くんに触らせてあげる」 亮は膝立ちになると、オーバーオールの隙間から小さな手を差し込み、恐る恐るうさぎの桜色の毛並みを撫でてみた。 うさぎの胸元の毛は中央で渦を巻き、ホイップクリームみたいにくるんと立っている。 深い毛足の中に指を潜らせると、生き物の温もりと心臓の鼓動がじかに伝わってきて、亮はドキドキする興奮で頬を染めた。 「よしよし……」 言いながら手を動かせば、少し固めの毛質が指の間を心地よく滑り、ふんわりと優しい石けんの匂いが立ち上ってくる。 うさぎは亮の愛撫にうっとりと目を閉じると、少しだけ首を傾けた。 「よしよし、うさぎさん、いい子いい子」 さわさわと手を動かせば、うさぎはそのまま眠ってしまいそうな調子で、ゆらゆらと首を動かす。 「亮くんは、よしよしが上手だなぁ。とっても気持ちいいよ……」 そう言ったうさぎは、今度は自分が器用に亮のシャツのボタンをはずし、広げられた胸元に白く大きな手を差し入れていた。 「じゃあ今度は、僕が亮くんをよしよしする番だね」 「え……、でも、とおるはにんげんだから、よしよしはいいよ」 困ったように顔を上げた亮の身体をくるんと反転させると、うさぎは「いいからいいから」と笑って背中から抱きすくめる。 「うさぎの国では、仲良しのしるしは毛繕いなんだ。だから、僕も亮くんの毛繕いをしてあげる」 「とおる、うさぎさんみたいにフサフサじゃないよ?」 「――亮くんは、僕のこと、嫌い? ホントはサクランボなしのフルーツタルトなんて、食べたくないってこと?」 「そっ、そんなこと、ないよぉ! ちがの、とおる、うさぎさん、だいすきだよ?」 再びうさぎが泣き声を出したことにびっくりして、亮は慌ててぶんぶんと首を振った。 チャリチャリとネックブレスが鳴る。 「じゃ、じっとしてて。僕、国でも一番毛繕いが上手だったんだ」 「……うん」 「噛みつかないでよ?」 「だいじょーぶだよ。とおる、かみついたりしないよ!」 亮の意志を確認すると、うさぎはご機嫌な様子でするりと亮の胸元に指先を滑らせる。 陶器のような白い指先は、亮の薄い皮膚に触れるか触れないかのギリギリのラインを、まさに水面でも滑るかのようにゆっくりとかすめていく。 背中に感じるホコホコとした小動物の体温とは対照的なその動きは官能的で、亮の背中にぞくりと甘いつららが突き抜ける。 あまりの衝撃に身体をいざらせようとする亮の動きはしかし、うさぎの見た目以上に強い力に押さえ込まれ、完全に封じられてしまっている。 「っ、う、さぎさん。とぉる、やっぱりいいよ、も、いいよぉ」 「どうして? 僕、へたくそだった? 痛かった?」 「そーじゃないよ。でも、とおる――っ、ぁっ、ん……」 「よしよし……、いい子いい子。亮くんが早く風船でお空を飛べるように。僕の呪いが早く解けるように。僕たち、がんばって仲良しになろうね?」 うさぎは鼻先を亮の耳元へ差し込むと、メープルシロップのような甘い声音で囁いた。 速い呼吸でちらりとそちらへ視線をやると、亮の瞳をうさぎのアメジストの目が捕らえる。 深く吸い込まれそうなその色。 自分を包み込む温かな毛の感触と、ふんわりとした幸せな匂い。 亮の全身は優しさと幸福感の海にとっぷりと沈んでいく。 「ぅさぎ、さぁん……」 うさぎの指先が亮の胸の飾りに触れると、ゆるりと周囲を巡る。 亮はその感覚にぴくりと反応を返すと、自分を飲み込もうとする快楽の波に耐えるように、うさぎの腕にしがみつき身体を震わせた。 「あれあれぇ? 亮くんのおムネ、僕のと違うね。これ、なぁに?」 言いながらうさぎは、小さく隆起し始めた桜色の突起をつまみあげると、亮に知らしめるようにくりくりとこね回す。 「っ、ゃ、ん、ぁっ、だめ、うさ、さん……」 「もしかして、サクランボ、おムネに隠してるの? ずるいよ、亮くん」 完全に起ち上がってしまった二つの胸の飾りを、両手できゅっと強く引っ張り上げると、亮は「ひゃぅっ」と甘い鳴き声を漏らす。 「ちが、よぉ……、っ、ぁ、とぉる、おむね、さくらんぼじゃ、ないよぉ……」 頬を朱に染め、涙目で必死に訴える亮の様子を眺めながら、うさぎは首を傾げ、さらに亮の胸の先を弄り続ける。 「そうなの? でも、小さなサクランボいっぱい毛繕いしたら、食べられるようになるかもしれないよ?」 「なら、ないのぉ、も、だめ、ぅさぎ、さん、もう、とぉぅ、も、かえるぅ」 亮の瞳からぽろりと涙が転がり落ちたのを見て、そこでやっとうさぎは困ったように瞬きをした。 「やっぱり亮くんには全力投球じゃないと、だめみたいだね。ごめんね、最初から本気出してたら、泣かせちゃわなかったのにね」 うさぎの言った意味がわからず、首を巡らした亮の目がすぐ横で頬を寄せるうさぎの横顔を捕らえた瞬間だ。 亮の全身がびくんと跳ね上がる。 吸い込む息。 焼き付けられる光。 聞こえる音。 ごぼごぼと音がするほどのピンク色が、亮のあらゆる器官から入り込み、満たしていく。 「僕の腕の中で泣いた子は、キミが初めてだよ。長い長い人生の中で、キミ一人だ」 触れられる肌が幸福感で火照り、至上の快感となって神経を駆けめぐる。 「ぅさぎ、さん……?」 熱い吐息で亮が名を呼べば、うさぎはわずかに目を細め、ちゅっと鼻先を亮の頬に押しつけた。 「次はもっと仲良くなろう。亮くんのこと、もっといっぱい知りたいんだ。僕、ずっと待ってるから。僕のたった一人のお友達。キミが来るの、ずっとずっと、ここで待ってるから」 うさぎは亮の手に黄色い風船を手渡すと、ひくひくとヒゲを動かしてみせる。 「今日はごめんね。また、遊んでくれるかな……」 桜色のベールの向こうにうさぎの姿が霞んでいく。 それが目で見える景色なのか、全身で感じている感覚なのかすら、亮には判然としない。 ただ、幸せであったかくて、満たされた波間を漂い、亮は手にした風船の紐をぎゅっと握りしめた。 世界が白から黒へと変わり、次に亮を待っていたのは鼻の奥をくすぐるコーヒーの香りであった。 |