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「いつまで休んでいるんです、トオル ナリサカ」 目を開けるとそこには、栗色の髪を高く結い上げ、鋭い眼で亮を睥睨する美しい女性が立っていた。 ゆったりとした白いブラウスと落ち着いたワインレッドのロングスカートを波打たせた彼女は、いつものように腰に手を当て、険しい表情で亮を眺めている。 亮は目の前のその人物に一瞬びくりと身体を竦ませると、何度か瞬きをして、それからゆっくり身体を起こしていた。 「ガーネット……さま……」 周りを眺めれば、広く贅沢な部屋。高い天井。 奥には亮の元に通う人間のくぐる、重厚な木の扉が見える。 「次のゲストの前に、執務室へ来なさいと言ったはずですよ? 寝坊して私の方を赴かせるとは、どういう了見ですか」 手を突き座りなおした白いシーツの海は、柔らかなスプリングのきいた使い慣れた天蓋付のベッド。 亮の指先が白く色を無くし、細かく震え始める。 亮は間違いなく、セブンスのあの部屋にいた。 あの、豪奢で泥濘に埋もれた部屋に、亮はいたのだ。 「すいま、せん……」 言われてみれば、朝一番にガーネットの部屋へ来るように、前日言われていたはずだ。 なぜ自分はそのことを忘れ、眠り続けてしまったのだろう。 ノーヴィスは起こしてくれたのだろうか。 ――いや、ノーヴィスは、どこにいる? ズキンと亮の鼓動が一つ脈打ち、息を詰めて亮は辺りを見回した。 「ノーヴィス!? ノーヴィス!」 「まったく……。困った子ですね、トオル。ノーヴィスはあなたを守って死んでしまったと知っているでしょう? だからあなたには昨日から新しい執事をつけたはずです。認めたくないからと言ってそういう態度を取るのはおやめなさい。いつまでもそんな子供のようなことを言っていては一人前のゲボにはなれませんよ!?」 ノーヴィス、は、死んでしまった。 そう。 オレを守って――。 知っていたはずだ。 シュラから教えられ、レオン先生からも教えられた。 もう、ノーヴィスは、居ないんだ――。 あれだけ泣いたのに。 あれだけ毎日泣いて泣いて、信じられなくて、やっぱりウソなんじゃないかってノーヴィスを部屋中探して――。 今度は東の小道から、ピクニック行こうって言ったから。 だから、こっそり部屋を抜け出して、森を捜し歩いた。 だけど周りはビルばかりで。もう、森すら見つからなくて。 ねぇ、ノーヴィス。 東の小道はどこにあるの? ノーヴィスがいないと、オレ、どこにもいけそうにないよ。 ずっとずっと太陽が沈んでもうろうろして、セブンスは大騒ぎになって、オレは捜索隊に見つかってガーネット様にこっぴどく怒られた。 ……いや、見つけてくれたのは捜索隊の人じゃない。 あれは、……誰だったんだろう? 「トオル・ナリサカ。聞いているのですか!?」 「っ、は、はいっ。ご、ごめんなさい……」 「はぁ……、本当に困った子だこと。カウナーツ・ジオットが甘やかせ過ぎるんですよ」 ジオット……。シュラのことだ。 シュラは、ノーヴィスがオレに作ってくれてたっていうお守りをくれた。 柔らかな浅黄色をした小さな巾着に、銀のメダイが入ってて、袋にはオレが好きだっていった野鼠やリス、フクロウなんかの刺繍が細かく見事に入れられていた。 ノーヴィスの私室の机の中にしまってあったらしい。 遺品整理のときはオレはそばへ近寄らせてはもらえなかったけど、それだけこっそりシュラが持ち出してくれたんだ。 ノーヴィスはオレが一人前のゲボになれるようにと、これを毎日少しずつ作っていてくれたんだと聞いた。 それでやっと、オレの涙は止まった。 そうなんだ。 オレは一人前にならなきゃいけない。 ノーヴィスに心配かけないように。 一人前のゲボになって、セブンスでちゃんとやっていかなくちゃいけなかったんだ――。 なぜ自分はそのことを忘れてしまっていたのか。 ガーネットの後ろに、困ったような顔で立っている見知らぬ男がいる。 昨日やってきた、新しい執事の人だ。名前は何と言ったか――。 それすらも亮は思い出せない。 「…………。」 亮は落ち着かない様子で視線を泳がせ、うつむいてしまう。 「セブンスでの生活にも慣れてきたようですし、今日からあなたは自分の意思で、リザーブに許可を出せるようになりました。ですが、いきなりこの調子では先が思いやられます。あなたに自己管理を任せるなど、まだ早かったでしょうか」 「いえ! いえ、オレ、ちゃんとできます! ごめんなさい、ガーネット様。オレ、ちゃんと自分でできます!」 亮は焦ったように顔を上げると、まくし立てた。 また、あの地獄の日々には戻りたくない。 あんな日常がこれ以上続けば、自分は本当におかしくなってしまう。 身体だけではなく、精神が歪み淀み、ばらばらに引き裂かれる恐怖に、亮はガタガタと震え、それを抑えるように両腕で必死に身体を押さえつけた。 「自己管理が出来るようになったからといって、サボることは許しませんよ。きちんと毎日必ずゲストは取るように。わかってますね?」 「っ、は、はい――」 ガーネットはそんな亮を見下ろし、厳しい口調で続ける。 「それから、一定のカラークラウンのみに肩入れしないこと。専属契約をしていないあなたは、まんべんなく、公平に、様々な方のリザーブを取らねばなりません。選り好みなどもってのほかですよ」 「はい――」 「本当にわかっているのですか? カウナーツ・ジオットばかり取ることは許さないと言っているのです。ジオットへのリザーブは、二十回他の方のリザーブを取るごとに一度、許可を認めます。異存はありませんね?」 「……は、い」 そうだ。 シュラと会うには、別のゲスト、二十人許可しなきゃ、いけないんだ。 「あとは新しい執事に任せます。トオル。あなたもいつまでもノーヴィス、ノーヴィスと引きずっていてはいけませんよ」 「はい――」 ノーヴィスは、もういない。 優しくて、あったかいノーヴィスは、いない。 「そうそう。それから――シド=クライヴのキル・リスト入りは見送られました」 「っ……、し……ど――」 肩を抱いた亮の腕が、いっそうぎゅっと引き絞られた。 「あなたはもう会うこともないでしょうが、あなたとは別の人生を彼は今までどおり続けるはずです。おめでとう」 シドは、大丈夫だった。 前と同じように、秋人さんと壬沙子さんと仕事して、前と同じように新聞読んで、前と同じように煙草吸って、前と同じように不機嫌な顔で毎日を送って――。 良かった。 『おめでとう。』 そう、良かった。 オレは、シドのいる場所を護れたんだ。 良かった――。 でも。 シドとは、もう、会えない――。 「っ!」 亮が顔を振り上げるが、そこにはもう誰もいない。 ガーネットは部屋を無言で立ち去り、新しい執事は亮のことなど構わずガーネットに着き従って部屋を出た。 広い部屋。 亮は一人ぼっちになった。 ノーヴィスはいない。 シュラはいない。 しゅう兄もいない。 シドとは、会えない―― ずっと。永遠に。 シドは、亮のそばに居ない。 「ぁ……」 涙が零れ落ちた。 寒くて、寒くて、身体の震えが止まらない。 ベッドの下に下ろしていた足を持ち上げ、膝を抱えてうずくまる。 しかし、寒さはおさまらない。 あまりの寒さに亮は嗚咽を漏らしていた。 誰もいない。 みんないない。 地面がないような気がした。 何もない真っ青な空に放り出され、触れるものもなく、ゆっくりと落ちていく。 延々と続く青は足の下にも同じように広がり、空虚な風だけが吹きすぎていく。 触れるものが何もないから、亮は自分の肩を抱き、膝を抱えてみた。 だけど、感じる鼓動は一つだけ。 聞こえるのは自分の泣き声だけ。 どこまでも広がる青い世界で、亮は一人になった。 「っ……、」 寒さに亮は目を開けていた。 真っ暗な部屋。 また、ゲストが来る前に寝入ってしまったのだろうか――。 ぼんやりとそう考え、縮こまっていた身体をゆっくりと伸ばす。 それと同時に手の先から足の先まで、じんわりと熱を持った血液が巡っていくのが分かった。 体中に力を入れすぎていたため痺れたような感覚が残っているが、手先を何度か握ったり開いたりしているうちにそれも取れてくる。 そうしてみると、別段この部屋が寒いわけではなかったことに気がついた。いや、むしろこの時期とは思えない生暖かい空気で周囲は満たされてさえいる。 薄く点った常夜灯に照らされた天井を眺め、ぼんやりとした頭で身体を起こす。 見回せばそこは寮の自室。 向こう側の壁につけられたベッドでは、久我が顔の上にグラビア雑誌を乗せたまま寝入っている。 「……、」 ふっとため息をつくと、亮は足元にわだかまったタオルケットをかき寄せていた。 枕もとの時計は深夜一時を指している。 ――寒い。 六月の深夜とは思えぬぬるむ気温の中、だが亮はどうしても身体の震えが収まらない。 熱があるわけでもない。 ノック・バックの兆候とも違う。 しかし亮は唇をかみ締め、ベッドの上で夢の中でしていたように自分の膝を抱え込んでいた。 ――誰もいない。 ――もう、会えない。 ――もう、シドと、会えない。 どんなに身体を抱きしめても、頭を振ってみてもその感覚が消えず、亮は寒さと切なさで押しつぶされそうだった。 ――本当に、会えなかったら? ――夢じゃなくて、本当に、もう、会えなかったらどうしよう。 苦しくて、頼りなくて、怖くて、怖くて、怖くて……。 亮は我知らずベッドを抜け出すと、枕元のキーリングを手に取り、足音を立てず裸足のままゆらりと部屋を出て行く。 板張りの廊下を渡り、階段を下り、下駄箱から靴を取り出し履くと、鍵を開け寮の扉を抜ける。 『会えないなら自分から押しかけろ。迷惑かけてやれ――』 そう言ったシュラの言葉が蘇る。 迷惑、かけてやろうと思った。 こんなに苦しくて、怖くて、息ができなくなるくらいなら、シュラの言うように迷惑かけてやろうと思った。 しかしどこに行けばいいのかわからない。 どこに行けば、シドは居るんだろう。 シドが今暮らしているマンションの場所も教えられてはいない。 しかし亮の足は止まらなかった。 Tシャツに半パンのまま、亮は深夜一時の街を走り出していた。 行き先は一つしかない。 亮が一番帰りたい場所。 いつも安心して泣いたり怒ったり笑ったりできた場所。 亮が安らかに眠れた場所。 亮がいてもいいと言われた場所。 あそこに帰りたい。 亮の足は次第に早まり、風を切って進んでいく。 ――事務所のシドの部屋へ。 寮から事務所まで、電車で二駅ほどある。 普通なら走っていこうなんて思わない。 電車かバスか。深夜のこの時刻ならタクシーか。 だが、亮にはそんなことは思い浮かばなかった。 ただ、あの部屋へ。 あそこへ戻りたい。 別にマンションを借りている今、そこにシドがいるはずがないということもわかっていた。 しかし他に行くところが亮にはなかったのだ。 自分で守ったはずのあの場所へ。 亮は走る。 けたたましく車の行き交う金曜夜の中を、汗ばむような六月の夜風を突っ切って。 |