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六月の陽光は極度の温度差による陽炎で蒼天を揺らめかせ、密度の濃い冷えた空気は雲海となって朝市を全て飲み込んでいた。 人々はこの異常事態にあっても変わらず“市場の商人と客”という役割を演じ続け、視界がゼロのこの環境で不満げな様子を見せながらもセラから引き上げる様子はない。 まさに煉獄とセラそのものの人間の行動様式は、シドにとって言い方は悪いが有利な肉の盾であると言えた。 周囲は完全に囲まれていると気配でわかる。 IICR武力局局長自らが率いる対シド・クライヴ囚縛隊は、シドがIICRを襲撃した四ヶ月前より発足された新たな部隊だ。 武力局の中でも選りすぐりの精鋭たちを局長であるインカ自らが選抜し率いている厄介な連中である。 今もこの数メートル先の見えない環境で迷うことなくヒタヒタと包囲の輪を縮めつつあるのだろう。 「シド・クライヴ! 何をしようと無駄だ。ここのエントランスが一つしか無いことはわかっているだろう。もはやどこへも抜けられはせん! 貴様に残された選択肢は二つ。大人しく我らの軍門に降るか、ここで消えるか──どちらを選んでもらっても俺はかまわん」 周囲の雲海を震わせる恫喝の主はウルツ・インカだ。 先刻二人が斬り結んだ古い商家は衝撃に耐えきれず崩壊し、戦場は市場へと流れていた。 以前の仕事のように護るべき対象も規約もない。それどころか周囲の一般人すらどうなろうともはやシドの目には映っていない。 そんなシドにとって状況は別段悪いわけではなく、むしろこの焦燥を自棄腹に誰彼構わず叩き付けたい欲求を晴らすのに打って付けの舞台と言えた。 今回の動きで何ら有益な情報は得られなかった。 ローチさえ捕らえられれば亮を取り戻せると、そう思っていた。 そう縋っていた。 しかし結果は望んでいたものとは真逆の──何の波風も立たない、何も起こらない、淡泊な悲劇だ。 シドは長刀を水平に構え、霧の向こうをにらみ据える。 周囲にあぶくのように現れ消え始めるのは透き通った音の針。 急下降する温度にセラの気候が崩され、周囲のセラ因子が凍り動きを止めていく音だ。 『シド! いったん戻れ、やり合うな!』 イヤホンから馴染みの声が聞こえた。 煉獄に戻って真っ先に連絡を入れた相手。 このセラへローチが現れるという情報を提供してくれた相手でもある。 シドにとっての唯一のパートナーであるその男の声もシドには届かない。 『ここでおまえらがやり合えば人が死ぬ! それも両手じゃきかない人数が──』 「知ったことか。ここを抜け体勢を立て直すだけだ」 『強行する必要はないじゃないか! 向こうの連中は気づいていないみたいだが、肉体ごと上がったままのおまえならエントランスを通らずとも戻れるはずだ』 「マルクトへはな。──だが俺はリアルへ戻る気はない」 ループザシープを出て舞い戻ったシドは、その後一度もマルクト──リアルへは戻っていない。 IICRの設備もローチの手も使えない現状、いったん下へ降りたら最後、次に肉体ごと煉獄へ上がる術がないからだ。 それはイコール亮を探す行為から移動の自由が奪われることを意味する。 「現実世界では移動に時間も制約も掛かりすぎる」 『だからってここで一般市民巻き込んでの全面戦争か!? 僕は虐殺の片棒担ぐ為におまえに手を貸したわけじゃない!』 秋人の言葉が終わらぬ間に、シドは大地を蹴り雲海を纏ったまま路地脇から現れんとする巨躯へ一閃を浴びせかける。 シド側が動くと予測を立てていなかったインカは不意を突かれ、構えた漆黒の金棒でその刃を辛うじて受け止める。 花弁にも似た火が赤く散り辺りをチカチカと染めては消えた。 「貴様っ、シド・クライヴ──貴様だけは、っ、貴様だけは許さないっ!」 視線が僅かに絡み合う瞬間、インカの口から「コロシテヤル」と漏れ出る呪詛を聴いた。 それは武力局局長としての言葉ではなく、皓竜という一人の男としての噴き出す怒りだ。 凍てつく刃が引かれ、高周波を上げながら金棒が切断されていく。 絶対零度の刃は原子停止の硬度でタングステンの強さを有する皓竜の電柱すら木材の如く断ち落とそうとしていた。 「ぬうっ──」 呻きと共に皓竜は金棒を逢えて薙ぎ払い、同時に象のような右足を振り上げ前蹴りを繰り出す。 その間0.3秒。 切断された金棒の先端が弾頭となり二十メートルに渡って市場のワゴンを大地ごと抉り取り進み、同時にシドの脇腹に内臓を潰す衝撃が加わった。 皓竜の足技によるダメージを背後への跳躍で辛うじて軽減させる。 反応の鈍い住民達を保護し立ち上がらせながら、副官が叫ぶ。 「局長! 下がってください、これ以上は──っ」 だが皓竜はそれすら意に介さず、半分になった金棒のなれの果てを捨て去り、背から新たな得物を抜き取ると、大地を揺るがす咆吼を上げ野生の勘に任せ無作為に大刀を振り上げた。 己の背丈ほどもありそうな青竜刀は雲海を切り裂き、ワゴンを破壊し、シドを肉塊にするまで止まることなくあらゆる物を粉砕していく。 囚縛隊の精鋭達に暴走した長を止める術はなく、それでも彼らは己の職務を全うせんと住民達の避難誘導を試み始めていた。 しかし暴走する怪物二人と(内一人は統率すべきリーダーである)呼吸すらままならない過酷な凍気に半ば街はパニック状態に在り、混沌とした戦場と化していた。 「カウナーツ! ソヴィロ! 凍気相殺加速、急げ!」 張り上げられる副長の声に隊の対イザ班が限界まで火力を上げていく。 それでもなお霧は晴れず、辛うじて生命維持のための呼吸が許される程度だ。 住民達の何名かは戦闘に巻き込まれがれきに叩き付けられ凍気による裂傷凍傷を起こし、身動きすら取れない状況に陥っているが、二人のクラウンは眼中にない。 皓竜の咆吼と叩き付け合う刃の閃光だけが彼らが示す意思表示だ。 『シド! いい加減目を覚ませっ。今のおまえを見て亮くんが何て言うかわかんないのか!?』 「黙れっ、あれの名を出すな」 口元に流れる血を拭い吐き捨てるようにシドは我鳴った。すぐさま、再び叩き付けられる青竜刀を紙一重で躱すとすれ違いざま二人の視線が斬り結ばれる。 今いる市場からエントランスまで、幾重にも囚縛隊の包囲網は続いていてシドの退路は絶望的なまでに遠い。 人を、街を、全てを滅し道を拓く──。 その一点に取り憑かれたシドの目が鈍く光り、全身の骨肉の隅々までイザが充ち膨れあがった。 同時に。躑躅色に輝くインク染みが上空の一点に大きく広がる。 立ちこめる雲海を鮮やかなマゼンタに染め上げ、二つ、三つ、五つ……──次々とその円盤は彼らの頭上十五メートルという至近距離で増殖していく。 このセラ特有の自然現象ではない。 その証拠に住民達は天を仰ぎ戸惑いと好奇に充ちた目で、恐怖とも感嘆とも取れる溜息をそこかしこで上げていた。 第一師団の精鋭達がさすがに悲鳴を上げる無様を晒すことはなかったが、何が起きたのか見極めるべく動きを静止し上空に注視する。 が、次の瞬間彼らも顔色を無くし声を詰まらせることとなっていた。 「なんだ、あれは……」 周囲ではここに来てようやく悲鳴が響き渡り始めていた。 躑躅色の光源から暗緑色の巨大な蜥蜴の首がニョキリと現れ、それらは真っ赤な大口を開き耳をつんざく哮りを上げた。 重金属の光沢を放つ鱗に覆われた頭部には禍々しい樹木様の角が二本突き出し、伸ばされる長い舌は先端が二股に割れ、ぬめぬめと紫色の粘液を滴らせている。 一見してトカゲのように見えていたその首は実のところ蛇に近い生き物なのかもしれない。 「異神だ!」 兵の一人が叫んでいた。 首の体積だけで新幹線一車両分ほどもありそうな異形は、艶やかな躑躅光の内から続々と顔を覗かせ、何かを探すように揺らめいている。 パニックが巻き起こっていた。 雲海が立ちこめ武装した男達が押し寄せてきても日常を続けようとした住民達でさえ、絶叫を上げ、腰を抜かし、よろめきながらエントランスへ押し寄せる。 同じ形状の首が躑躅の光より次々と現れ、七つに達したところで、さらに大きな塊が彼らの根元より姿を現す。 それがこの蜥蜴だか蛇だかの胴体であり、七つの首の大本であるとわかる前に、囚縛隊の精鋭達 は動き始めていた。 皓竜も、シドも、瞬間動きを止め意識を上空へ奪われる。 滴り落ちる粘液は石畳を焼き、溶かし、紫炎を上げた。 そこかしこで細い焔が灯火のように吹き上がり、その熱が冷えた靄を晴らしていく。 シドの口から舌打ちが漏れた瞬間、二人の立つ石畳は強烈な酸と焔で焼き溶かされていた。 偉丈夫と巨躯は共に飛翔し間一髪それを躱す。 「ひ……化物だああああっ!」 「喰われちまうっっ!!」 ワゴンの下、建物の鍵、兵達の背後──、隠れて状況を見物していた住民たちが一斉に這い出し、囚縛隊の兵たちへ縋り付き助けを請う。 同じ制服を纏う皓竜へも等しく彼ら住民達は腕を伸ばし、押し寄せ、あの化け物を退治しろと当然のように喚き主張し始めていた。 「っ、くそ、放せっ、──シド・クライヴ!! 逃がさないっ、今度こそ殺してやる、どこだっ、ヴェルミリオオオオッ!」 まとわりつく住民に足を取られ手を引かれ、皓竜は叫んだ。 しかしその視界からは既にイザ王の姿は消えている。 と──。身体が浮き上がるほどの地響きが一度、上がった。 異形の巨体が陽光を遮り、大地に降り立った瞬間のことだった。 七つの首には大蛇の頭が乗り、その口からは忌まわしい焔を吹き上げ、捕食者の動きで揺らめいている。 それらは一つの胴体から生えていて、古代竜を想起させる鱗に覆われた体躯は小山ほどもありそうだ。 「オロチ──」 先刻の地点から僅かに外れた古家の門に佇むシドの口から、異形の名が漏れていた。 「懐かしいでしょ」 立ち上る紫焔の奥から声がした。 路地の奥。 百年も変わらぬままであろう打ち棄てられた寺院の前に、彼女は立っていた。 八岐大蛇と呼ばれる倭国の異神を見た瞬間より想定はしていた。 だがいざその姿を目に映すと現実感が無い。 「諒……子」 もう彼女は十年以上完全に消えていた人間だ。 秀綱との傍らにその身を置き、秀綱の造り上げたミトラをこの世界に産み落とした女。 シドの妹弟子であり、そして成坂亮の母。 既に寂静したであろうとIICR諜報局ですらそうリポートを書き記した彼女は、シドの前に立っていた。 美しい体のラインがくっきりとわかるカーキのボディーアーマーに身を包み、紫紺の煙焔に黒髪を遊ばせながら、彼の知る面影と寸分違わぬ姿のまま確かにそこに居るのだ。 「ひどい戦い方に酷い顔。見る影なしね」 明神諒子は柳眉を潜め、細い鼻梁に似つかわしくない皺を、子供のように寄せて見せた。 「すぐにマルクトへ戻るわよ、シド」 「──っ、断る。俺はこのまま煉獄に潜行し」 『準備は出来ています』 それでもなお拒もうとするシドの耳へ、諒子の持つレシーバーからある人物の声が漏れ聞こえた。 シドの喉が一瞬ゴクリと動く。 諒子を見た時以上に彼は顔色をなくし、我知らず目を見張る。 『クライヴさん、こちらへ早く!』 確かに彼は死んだとされていたはずだ。 シド自身がそれを疑い、彼の足跡を追ったが彼自身に辿り着くことは叶わず──亮には偽りの情報を伝えることしか出来なかったのだ。 そのはずだったのだ。 だが──。 確かにその声の主は。 「さ。あんたは私と来てもらうわ。嫌とは言わせない」 有無を言わさぬ力で腕を掴まれる。 異神の咆吼は阿鼻叫喚の中、梵鐘の音の如く嫋々と響いていた。 |