■ 5-24 ■



 本日の業務を終え久しぶりに定時で上がったレドグレイは、地下駐車場に止めてある己のベントレーへ向かいエレベーターを降りたところだった。
 コンクリート打ちっ放しの冷えた空間に一日中変わりなく照らし続けるライトが妙にまぶしく、柱や床に塗り込められた白線やグリーンの指示線が照り返している。
 すでに深夜24時を超え残業する者は泊まりになり、この時刻から駐車場を利用する者などいないのだろう、辺りは静まりかえり、所々に停められた車両が黒く蹲る獣のように見えた。
 この火急の折、本来なら自分も執務室で仮眠を取り寸暇を惜しんで業務に取り組むべきところなのだが、家族を持つレドグレイとしてはそうも言っていられず、深夜帰宅の早朝出勤という面倒な形を取っている。
 スーツのポケットからキーを取り出すためほんの少し下を向く。
 と、眼前に影が差し、その不穏な気配に顔を上げた。
 目を焼く地下駐車場のライトを背に、一人の長身が立っていた。
 一瞬眉を潜めかけ、だがすぐにいつも通りの官僚然とした落ち着きを取り戻すと、レドグレイは淡々とした口調で声を掛けた。
「直接会いに来られるとは思ってもみませんでしたよ、ヴェルミリオ。あなた暇ではないのに」
「そうさせているのはおまえだろう、レドグレイ。一体何のまねだ」
 静かに返された声は冷たく、レドグレイの背にぞくりとした緊張が走る。
 まさかこの男がこんな風に直接押しかけてくるとは考えていなかった。
 彼の仕事は秒単位でスケジュールを切ってもまだ完遂できないレベルの量であり、特にテロ特とPROCのダブルワークを課した今、引き継ぎ期間であるここ数日はリアルへ戻る暇など皆無のはずなのだ。
 だからこそこの機にレドグレイはあらゆる計画を推し進めたのである。
 しかしそんな思惑通りにことは運ばないらしい。
「どういうつもりも何も、私は最善と思われる人事をヴァーテクスに提案し、それが可決されただけのこと。これが私の一存でどうこうできる問題ではないということはあなたもわかっているはずだ。――あなたこそ課せられた仕事を放り出したわけではないでしょうね」
「スプルースは優秀だ。引き継ぎはすでに終えている。PROC起動も問題はない。……はぐらかすのはやめろ。俺の質問が人事についてでないことはわかっているはずだ」
 目の前の男は出会ってから指先一つ動かしていない。
 にもかかわらず、レドグレイは己の足がいつの間にか数歩後ろに下がっていることに気がついた。
 朱い髪の長身は瞬き一つせず凍った琥珀の瞳で彼を見下ろしていた。
 黒のロングコートの左下からちらりと見える黒鞘はヴェルミリオの愛刀であり、顕現化を施された銘刀であると聞いている。
 セラでは数多のソラスのアルマを吸い、リアルでは組織に徒なすソムニアたちの血を飲んできた相当物騒な代物だ。
 セラならばまだやり方もあるだろうが、リアルでの戦闘能力においては彼と自分、雲泥の差がある。
 もし今この男が仕掛けてきたならば、恐らく数秒で自分は命を絶たれるに違いない。
 一瞬の間にそんな詮無いことが頭を巡るが、レドグレイは表情を変えず、代わりに乱れのない髪を手ぐしで整える。
「あの子のことならば、感謝こそされ咎められる意味がわかりませんね。亮の存在公表はあの事故により不可避だった。ヴァーテクスはあの子を護るためできうる全てのことをやっているだけです。亮の保護はビアンコから最重要事項の一つとして命を受けていますからね」
「樹根核に連れて行くなど俺は許可した覚えはない」
 気づいた時には胸ぐらをつかみあげられていた。十センチ以上ある身長差で思わずよろめきそうになる。
 ただでさえ寒かった辺りの空気が一気に冷気を増していく。
「っ、あなたの許可がなぜ必要なんです? 亮は10.19事件の被害者であり、希少で優秀なゲボ種だ。彼はIICRが全力でケアしなくてはならない存在です。肉親だろうが保護者だろうが――恋人だろうが、彼を救う措置に口出しなどする権利はない」
 しかしレドグレイは声のトーンすら変えずそう言い放っていた。
 一瞬の静寂。
 たとえ噛み殺す牙を持っていたとしてもこの男はそうしないという確信が、レドグレイにはあったからだ。
 今目の前の狼はIICRという組織に首輪をつけられた存在だ。
 カラークラウンを冠するということは率いるファミリー全ての命と生活を預かるということであり、私的な考えによる行動が一切許されなくなるということである。
 一部の者は知っているが、以前この男が追放されたのは完全なるフェイクであり、ビアンコとヴァーテクスにより仕組まれた仕事の一環であった。それ故彼のファミリーであるイザ種に実質的なマイナスになる罰が下されることはなかった。
 だがもし今ここで彼が暴走すれば、以前のような超法規的措置が執られることはない。
 イザ・ファミリーに属す全ての者たちへ不利益が降りかかると同時に、彼の副官やその他重要ポストを預かるイザ達はボスを止められなかったということで、連帯責任とも言うべき重い処罰が下されるに違いない。
 そして何より成坂亮の身を今現在手にしているのはシド・クライヴではなく、ヴァーテクスなのだ。
 アルマのみならず、かの少年の肉体までセブンスから引き上げ、丸ごと彼の手の届かない場所で囲っている。
 亮の治療を継続するも放棄するも何もかも、ヴァーテクスの……否、執行官であるレドグレイの一存にかかっているということだ。
 シド・クライヴという男は二重三重に鎖を巻かれた哀れな犬に過ぎない。
 一年前幾人ものカラークラウンが欲し、身を滅ぼしていった8番目のゲボ。あの少年の身体も心も独占したこの男が今度はその宝を失う番なのだ。
 徐々に。段階を経て。少しずつ。
 この男は亮という存在を搾取されていき、そして一気に――失くす。
 そう考えると九分の痛快と一分の同情を感じずにはいられない。
 案の定、イザの王は続く言葉を持たず、黙したままレドグレイの胸ぐらをつかみあげた拳をさらに握り込むことしかできはしない。
 上質のラム革で造られたコートが繊維ごと凍り付き、ミシミシとあり得ない音を立てていた。
 気に入っていたコートだが、おそらくこれはもう着られないだろう。
 触れるだけで破裂しそうなほど張り詰めた空気を縫うように、気の抜けたバイブ音が響いたのはそのときだった。
「……失礼。妻から電話のようだ。出てもよろしいか?」
 一拍の空白を置き、男の手はレドグレイを解放する。
「あなたもプライベートな時間にはぜひあの子の元を訪ねてあげて欲しい。治療を頑張ると私にけなげな意志を伝えてくれた亮に、ご褒美としてあなたの存在は必要だ。もちろん――カラークラウンのアクシス酔いは酷いものですから、それなりの覚悟は必要ですけどね」
 表情すら変えず立ち尽くすシド・クライヴの横を通り過ぎながら、内ポケットから携帯電話を取り出す。
 しつこくバイブを続ける機体の通話ボタンをタップした指先は感覚がなかった。
 気づけば全身から冷たい汗が噴き出している。華氏10度未満なのではないかと疑うほどの寒さであるにもかかわらずだ。
 耳元からレドグレイの帰宅遅れを心配する妻の声が聞こえた。
 少し仕事が手間取っただけだと伝えながら、グレーのベントレーへ向かい歩を進める。
 何事もないかのように歩き続けるレドグレイだが、一度も後ろを振り返ることはできなかった。






 研究局インセラメインラボ。そこはフランス領とほぼ同じ広さを持つ安定した気候の専用セラへ建てられている。
 IICR機構員だとしても入獄するには許可証をアルマに埋め込み三重の検問を通過する必要があり、それを持たぬ者には直接入獄、ライドゥホによるセラ間移動、どちらも不可能な仕様となっている。
 IICR研究局という機関は機密に次ぐ機密、秘匿に次ぐ秘匿を旨とするところなのだ。
 それ故研究局職員以外ほぼ100%に近く、ここへ足を踏み入れることはない。
 彼ら以外で訪れるものと言えば研究対象のソラスや獄卒のような人外のもののみだ。それらの場合は訪れる──というよりも捕獲され連行されてくると言う方が正しいのだが。
 そんなメインラボの中枢部へ百余年ぶりに五人もの他部署の人間が足を踏み入れていた。
 白いライトに照らされた廊下はやたら幅広で、多くの研究者達が忙しげに行き来している。左右には頑丈そうなゲートが一定間隔で並び、その扉が開く度に聞いたことのない奇っ怪な音やなじみのない薬品臭などが漏れ出てくる。
 事前に通達が回っているらしく、案内の者に付き従い、左手首に許可証を埋め込んだよそ者たちがぞろぞろと進んでいく様子を、研究局員たちはピリピリした視線で見送っているようだ。
「……やぁな視線だこと。勃っちゃいそ」
 金髪ボブヘアをさらりと揺らし、角張った顎の真ん中に付いた分厚い唇を彼女は可愛らしく尖らせる。ショッキングピンクのキャミソールと小さめのチノパンに肉感的なボディーを押し込めた女子はしかし、非常に野太い声でそうぼやいていた。ちなみに彼──いや、彼女の身長は二メートル近い。
 そんなぼやきを耳にし、彼女の前を歩いていた二十代後半と見られる青年が首を巡らせ振り返る。
「しょうがねーってU子っち。研究局のギーク兄ちゃんたちにとっちゃ、俺らみたいな肉体バカは異星人みたいなもんなんだしよ」
 目は小さくそばかすの多い彼の顔立ちはいたって地味で、身長も170cmそこそこの中肉中背だが、肩口まで伸ばし若干逆立ったド派手なライムグリーンの髪と、耳や眉についた金属ピアス、破れ掛けたTシャツやジーンズ、そしてその上から幾重にも巻かれた鎖というパンクな服装のせいで、白衣がユニフォームである研究局員からしてみれば彼もかなりいかつく映るに違いない。
「ちょっとカイ先輩。肉体バカってそれ僕も入ってます? 僕はウルツの中でも繊細かつエレガント路線で売ってるんですから先輩たちの仲間には入れないで欲しいんですけどっ」
 そう言って頬を膨らませたのは最後尾を歩くまだ二十歳そこそこの若者だ。
 身長こそ190cmを超えているが白いシャツに細身の体を包み、艶のある榛色の髪をカチューシャで上げた彼は、確かに肉体派というより雑誌モデルか何かのようである。
「ウルツって時点ですでに肉体派だろうがおこがましい。ユーリっつったっけ? 己を知れ己を」
「ユーリじゃなくてユーラですっ! 5人しかいないメンバーの名前くらい覚えてくださいよっ!」
「ちょーっとうるっさいわよボクちゃん。空気読みなさいよ周り見えないの!? あんまりうるさいと唇塞ぐわよアタシの唇で」
「ひぇっ……」
 妙な声を上げたのを最後にユーラが沈黙する。
 そんな彼らのやりとりでU子の後ろにつく40代の女性が楽しげに笑い声をたてる。
 ゆるくウェーブの掛かった長い黒髪が白い面を縁取り彼女の整った顔立ちを際だたせていた。サファリシャツとカーゴパンツという考古学者のような出で立ちだが、彼女のふんわりとした雰囲気で女性らしさを失ってはいない。
「楽しい方達ばかりで安心しました。私、ぼーっとしてばかりいるからこんな過酷な任務を遂行する部署の人たちと馴染めるのかって、設備課のみんなに心配されて送り出されてきたので……」
「だーいじょうぶ、やってけるわよ。女の子同士助け合っていきましょ。この中でまともなのはアタシとリー・ミン、女子二人だけだもの」
「はい。ハガラーツの私は器用さだけが取り柄なんで、精一杯バックアップさせてもらいます。U子さんは車の運転がお仕事ですし、女子二人で男性陣を盛り立てていきましょうね」
「……リー・ミンさん、まじ天使……っていてててて、U子っちなんなん!? ピアスひっぱんなばか耳もげる!」
「チーム内恋愛は禁止っ。命がけの任務だってのに脳みそにタンポポ生えてるのかしらっ!? 男子ってほんとバカばっかり」
「はぁ〜……なんかなぁ。……ほんとに先輩たちって優秀なんですかぁ? ボクはこの任務ウィスタリアから名指しで抜擢されて来たんですけど、正直みなさんあんまり仕事出来そうに見えないっていうか、替え玉で来ちゃったりしてないですよね? 命預けるの心配ですよ正直」
「っつ〜……、正直正直うっせぇな。あったりまえだろ。言っとくが俺はカウナーツじゃ副官やっててジオットの次くらいにゃやる男だかんな。U子なんてこのナリじゃなきゃとっくにカラークラウンに抜擢されててもおかしくないレベルだし、リー・ミンさんだって設備課で神の手って呼ばれてんだろ? んで、うちの班長ときたら泣く子も黙る朱の氷神様だぜ? 俺にしてみりゃまだ三転生目で見たことも聞いたこともないヒヨッコだけが心配の種だぜ、正直」
「見たことも聞いたこともないヒヨッコって僕のことですか!? ひ、酷いですっ、僕だってウルツの中じゃインカの次の次の次くらいには優秀ですよ!」
「アタシのナリがなんだって? んん?」
「…………さて、あとどのくらいでブリーフィングルームにつくんですかね」
 急に真顔になり両耳のピアスを押さえたカイは先頭を歩く案内係へ話を振る。
 背後のやりとりを聞いていた下っ端研究員は振り返り、「もう2ブロックほどです」と半ばあきれ顔で答えていた。
 彼にしてみればこの緊張感の欠片もない連中が本気で深層セラへ潜っていけるのだろうかと、根本的な疑問が生じたに違いない。
「班長はもうブリーフィングルームへ入ってらっしゃるんでしょうか?」
「いえ、まだだと思います。ヴェルミリオは少し遅れてこちらへ入獄されたようですし、ウィスタリアと最終確認をしているはずなので、もう二時間ほどは来られないと思いますよ」
 リー・ミンの問いかけに、懇切丁寧に案内係が答える。
「ウィスタリア!? 藤色ちゃんは今樹根核へ当番で出張してるんじゃないの? どうやって確認しあってんのよ、今更メール?」
「いえ、昨年ついに樹根核との映像・音声でのやりとりが可能になったんです。いわゆるテレビ電話みたいなものなんですがその開発はまさに奇跡なんですよ。樹根核はリアルと時間軸を同期させてる分、間の変換が非常に複雑で不可能に近かったんです。さらに膨大なエネルギーと情報量が回線を流れるため他の回線が使えなくなる恐れもあって、しかしそれを我々研究局通信開発チームが一丸となりサーバーのプロトコルを一から構築し直し渋谷理論を発展させてΩ=31V2……」
「わかったっ。わかったから、もう大丈夫。そうか、うん、とにかく凄いんだな、うん、テレビ電話。うん」
 背後のカイが焦ったように案内係の言葉を遮っていた。
「アタシたち脳筋みたいに言われてるけど、ここの連中はアタシらの真逆バージョンってだけね。筋脳よ筋肉まで脳みそよ」
「うふふ。適材適所ってこういうことなんですね」
「僕はカイ先輩と違って脳筋じゃないですからね。元素記号だって20個くらいは言えますし、昆虫の名前にも詳しいですっ」
「……おまえあんま喋るな。自ら己の目指すキャラを踏みつぶしに言ってるから」
「? は? もっと人にわかる話し方をしてくださいよ!」
 研究局インセラメインラボの中を異質な団体が通り過ぎていく。
 彼らの任務が何でありそれがどう役立つのか──、それをこのラボの中の人間全てが知っている。
 だからこそ白衣のモブたちはこの一団を好奇の目で眺め、だが声を掛けようとはしない。
 研究局にとって──いや、IICRにとっての新たなフェーズが始まろうとしていた。




 
「ちょーっとおっそいよシドさん! ここの通信10分ごとに十万ドル単位でお金が溶けていくんだから遅刻なんてもってのほk」
 壁面に据え付けられた50インチモニター画面の中でまくし立てていた有伶は現れた男の顔を改めて確認し、語尾をしゅるしゅると縮めてしまう。
 研究局メインラボ中央研究棟通信室。
 その中にあってもっとも特殊でもっとも高価な設備を有する通称ガンリールブースに、イザ・ヴェルミリオが現れたのは指定時刻より二十分を過ぎた頃であった。
 3メートル四方の狭苦しい小部屋に設置されているのは、丸テーブルと大きめのリクライニングチェア。壁にぶら下げられたモニターとパソコンのみである。
 一度つなげたらそうそう切断できないこの回線を維持するため、有伶はそんな何もない小部屋の扉のみが映る画面を見据えていらいらと時を過ごしていたに違いない。
 ウィスタリアとて研究局の長であり、時間には常に追われている。さらに言えばこのガンリールブースの利用時は他の回線速度がほぼ十分の一に規制されてしまうため、別の業務に支障をきたすのだ。いつもは昼行灯そのものにへらりとした態度を崩さない彼が声を荒げたのは無理からぬ事だと言える。
 だがしかし、そんな彼の怒りも現れたシドの顔を見た途端、あっという間に萎んでしまったらしい。
「あーいや、まぁその……、大丈夫?」
 シド・クライヴという男とは旧知の間柄である有伶は、一見無表情に見える彼の顔つきの中にただならぬものを感じ取らざるを得なかった。
 怒りや苛立ちではない。強いて言えば苦悶という一言で表されるのではないだろうか。 
「ああ、待たせたな。作戦の流れは受け取っている。遅れた分早めに終わらせよう」
 その切っ先のような目元に、秀麗な眉に、引き結ばれた薄い唇に、いつもは伺えない影が落ちている。
 だがシドは超然としたいつもの居住まいを崩すことはない。
 モニター前のチェアに腰を沈めると、手にした作戦書をめくり内容を今一度吟味しているようだ。
「どうした。樹根核とつなげるのは予算を食らい過ぎるのだろう? 捕捉があるなら早く言え」
「……それより聞きたいことがあるんじゃないの?」
 シドが作戦書から目を離し、顔を上げる。
「ごめん。亮くんを樹根核に引き上げる話、実は僕から提案したことなんだ」
「っ──、なぜだ。亮の保護が目的ならばセブンスで十二分に機能したはず。それを……」
「まだ確証がないからレドグレイには伝えてないけど、亮くんの入院措置に使う場所として通常セラでは補いきれない部分がありそうなんだ。キミも知っての通り、亮くんの炎翼の力場は異常だ。53号施設ですら次元震を起こしたほどだ。あのままあそこに置いておけば同じ事件を引き起こさないという保証はない。うちの人間をこれ以上寂静させるわけにはいかないし、亮くんに人殺しをさせたいとも思わないからね」
「…………」
「何度もあんな事が起こる可能性があるとレドグレイに伝えれば、亮くんの治療は断念させられてしまうかもしれない。だからこのことは彼には伝えていない」
「…………あの事故で亮が消した人間は本当に寂静したのか」
 静かな口調だった。
 だがその内側にどうしようもない焦燥が宿っているのを有伶は感じ取る。
「現段階では92%。本来なら数日で転生するティヴァーツ種が3名、未だ生まれ変わっていないのがその理由だ。ヴァーテクスが主になり転生管理局へ観察と検証を依頼しているらしいけど、まだ報告は上がっていない。もちろん転生障害が起きている今の状況では、アルマがどこかに引っかかって戻ってこられないだけという可能性もあるけど、3名とも揃って障害に引っかかってるなんてことは考えにくいんだ」
「楽観的に見ての生存率8%ということか」
「うん。……亮くんにはこのことは伝えないつもりだけどね。あれは事故なんだから、あの子に罪があるわけじゃない」
「……すまない」
 シドはわずかに目を伏せた。
 この男が人に詫びを言うなどかつての有伶なら信じられなかったが、ここ数週間であまりに自然にその光景を受け入れることができる。
 心などなさそうに見えたこの男が人間だったということを、不思議な感慨を噛み締めながら改めて思い知る。
「でも悪いことだけじゃない。樹根核の観測基地に置かれた機器を流用すれば、亮くんの炎翼の力場がどこから発生しているのか突き止めることができそうなんだ。煉獄を超えた別世界にあるこの場所だから可能なことだ。発生源がわかれば原因や対症療法なんかも見えてくる」
「そうか。……有伶。俺はただ……早く──あれに元の生活を戻してやりたい。それだけだ。……だからその為におまえの力を貸して欲しい」
 丸眼鏡の向こうから覗く寝ぼけた眼が少しだけ見開かれた。
 そしてふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべる。
「うん、任せといて。……にしても今の録画してローチさんに見せたらびっくりするだろうな。すごい高額で原盤買ってくれそう」
「……おい」
「あはは、冗談冗談。それに僕も亮くんの治療しに何度もリアルに戻るわけには行かなかったから、結果オーライということにしといてよ。移動する度アクシス酔いでぶっ倒れてたら時間がいくらあっても足りないし、身体もついていかないし、だったからさ」
「そんなにキツイのか、アクシスに乗るということは」
「あーもーそりゃもー、内臓が十回くらい裏返る勢いだよ。シドさんなんかショックで死ぬんじゃないかな、能力値的に見て。亮くんのお見舞いに来て一度体験してみたらどう?」
「そうだな……、この作戦が終わったら一度そっちへ向かうつもりだ」
「うんうん、ぜひ。アクシス酔いでたとえ浜に打ち上げられたマグロみたいになってても、シドさんが来てくれれば亮くんも嬉しいと思うよ」
「…………」
 微かな溜息がシドの口元から漏れた。
「それで、調達班PROCの最初の作戦だけど、ボーダーに近い深層セラ──かの有名な「ゲヘナ」へ行ってもらいます」
「詳細は確認した。選抜メンバーの能力を過信したりはしていないか」
「その辺は安心して。僕が厳選に厳選を重ねた布陣だから。それにゲヘナの炎は亮くんの炎翼と構成が似てるんだ。戦利品を分析に掛けることでもしかしたら治療の方向性が見えてくるかもしれない。この作戦はまさに一石二鳥ってわけ」
「……わかった」
 そう言うと、シドはすらりと立ち上がる。
 どうやらもうすぐにでも作戦へ向かうつもりらしい。
 画面の向こうで有伶が慌てたように呼び止める。
「わかったって、作戦の細かいとこのツメが……」
「人選さえ確かならこの作戦書で問題はない」
「いやでも、向こうでは交信すら遮断されるわけだからその場でこっちに確認取ることもできないんだよ? ほんとに大丈夫!?」
 しかしすでにシドの中でミーティングは終了してしまっているようで、とりつく島もない。
「狩ってくるモノは『黒炎』だけでいいのか」
「え、あ、うん。黒炎だけっていうけど量的に瓶詰めにしてコンテナ3杯分くらい必要だからよろしく頼むね!」
 黒のコートを翻し、シドが扉を出て行く。
「わかった」の返事すらせずに締められた無味乾燥な鉄扉の画面を眺めながら、有伶は
「これは次の作戦時も亮くんの治療と素材を絡めて、こじつけてでも説明するべきだな……」
 と一人頷いたのだった。