■ 5-56 ■ |
全ての装備を詰め込み定刻通りトレーラーを発車させて、それはほんの十分ほど過ぎた頃だった。 巨大な車体がIICR専用のエントランス道から深層セラへ向けてのジャンクションへ入るその手前。PROCメンバーが出発時の指定座席から各々の控え室へ向かおうとするタイミングである。 出発時から一言も発せずフロントガラスの向こうを流れる森林道をにらみ据えていた彼らの班長は、唐突にこう切り出していた。 「目的地を変更する」 彼の発した言葉の意図がわからず、後部座席の男子二人は「え?」「は?」と似たような音を出し、同じく後部座席に座ったリー・ミンが「任務変更ですか?」と彼らの疑問を代弁する質問を繰り出す。 シドの横、運転席でハンドルを握るU子は出発時から不機嫌に尖らせた唇もそのままに、ちらりと助手席の上司を見ただけだった。 「目的のセラはヴィーナスダイスだ。119時間で到着しろ」 「ヴィーナスダイス!? 寒冷なミケランジェロと真逆のセラじゃないすか。装備、どうすんすか、ハイエンド耐熱ジャンパーとか積んでないんじゃ?」 目を丸くしたカイの言葉に、無言を通していたU子も同意を唱える。 「まぁたヴァーテクスか研究局かが無茶言ってんの? さっきのブリーフィングは何だったのよ、15分前よ!? 無理よ無理無理一旦戻って体勢立て直さないと」 「戻ることは許可せん。このまま進め」 まるでランチの店でも決めるようにさらりと語られたリーダーの言は常軌を逸したもので、U子は思わず食ってかかる。 「はぁ!? 何言ってんの!? ヴィーナスダイスなんてこのトレーラーで入れるわけないでしょ。あそこの入口、超高速で回転してんだから軽トラだって後ろ半分ちょん切られるわよ!」 「入り込むだけなら、車載している小型ローバーで十分だ」 「アレはセラ内部探索用で、ドライバー含め人間二人積むのがやっとでしょうが! 人員送り込みには私が何往復かするとしても、装備や獲得資材はどうするってのよ」 「装備も往復も必要ないし、今回に限って持ち帰る資材もない。おまえたちは俺をVDに置いたらそのまま帰還するからだ」 「…………えーと、帰還って、任務は?」 「──これは任務ではない。強制だ。U子には申し訳ないが、どんな方法を取っても俺をヴィーナスダイスへ運んでもらう」」 カイの問いかけに対するシドの答えに、一同は全くピンとくることなく眉間に皺を寄せ首を傾げていた。 宵闇の森林道の向こう側に、無限に広がる闇の壁が見えている。間もなく車はIICR本部セラの外郭に達し、エントランス道から外部ジャンクションに差し掛かろうとしていた所だった。 「ちょっと話が見えないわね。任務じゃないならなんなのよ。寝不足で頭おかしくなったんならやっぱり引き返すわよ」 不機嫌を更にこじらせたU子がドスの利いた声で、誰もが恐れて止まないイザ・ヴェルミリオに食ってかかる。 だがそれに対し何ら口調に変化を付けることなく、シドはこう言ってのけた。 「このトレーラーは俺がカージャックしたということだ。当該セラに俺を置いていくまで引き返させない」 履いたデニムを破かん勢いで、U子の筋骨隆としたふくらはぎが膨れあがり、急ブレーキを掛けていた。 タイヤ全てが煙を吐くほどの勢いで止められた十数トンを誇る巨体に慣性の法則が働いて、一同の身体が投げ出されんばかりに揃って前方へ振られる。同時にこの場に居る全員が目を見開き、助手席に座るPROC班長を凝視した。 またこの人は何を言い出したのかと、後部座席の三人はあんぐりと口を開けている。 今まで彼らの長が冗談を言うところなど見たことがないし、何より彼の醸し出す触れるだけで血を吹きそうな急迫の気配は、今の宣言が本気以外の何物でも無いということを一同に悟らせる。 「ハッ、カージャック! このアタシの車をジャックするだなんて、いい度胸じゃない。私が嫌だって言ったらどうするつもりよ。後ろの三人を人質にでも取るつもり?」 「──場合によってはそうするしかないな」 「ひぇっ……」 後部座席から情けない声が上がり、「震えてんじゃねーよバカ! 班長がんなことするわけねぇだろ!」と叱責するひそひそ声が聞こえる。 「理由は何なんですか、班長! ヴィーナスダイスに一人で置き去りなんて、任務だとしても私たちは拒否します。何の装備もなく救援予定もなく──そんなの班長自身、死にに行くようなものですよね!?」 「リー・ミンの言う通りよ。部下を人質に取ってまで深層セラへ自殺に行く手伝いなんて、アタシはお断りだわ」 「確かに俺は恐らく二度とおまえたちと会うことはないだろう。だが──目的あってのことだ。死にに行くわけではない」 「PROCは解散……ってこと、ですか」 珍しく神妙な声音で問いかけられたカイの言葉に、シドは小さく、だがはっきりと「そうだ」と返した。 「それを15分前のブリーフィングでなく出発した今言うってことは、IICR本部には言えない目的があるってことよね? ジャンクションに入ったら本部とはまともな交信が取れなくなるもの」 U子の言葉にシドは黙したままであり、それは暗に肯定を意味しているとこの場に居る誰もが理解する。 「本部の意に反した行動──それも、直前まで何ら計画を変更したそぶりを見せないやり方。つまりこれはちょっとしたドライブや職務違反じゃない。知られたら強制的に止められる反逆行為みたいなもんでしょ? それに私たちが大人しく乗ると思う?」 沈黙が辺りを支配する。 静まりかえった車内に数分の時が流れた後、彼らの眼前で思いもしなかった光景が展開されることになる。 「頼む。どうあっても、何を使ってでも、今すぐに──行かなくてはならない」 かのイザ・ヴェルミリオが格下の部下達へ、わずかに頭すら垂れてそう言った。 その声はいつもと変わらず怜悧で冷えたものだったが、根底に滲む苦悩や焦りが垣間見えるようだった。 信じられない景色に部下達一同は黙り込む。何が彼らのリーダーの周りで起きているのか──。PROC任務遂行中、眠る時間すら惜しんで命を削るように動き続けていたヴェルミリオがその任務を放棄すると口にするからには、相当の事情が彼を突き動かしているのだろうということだけは、この場に居る全員が理解できた。 数秒後。短い沈黙を破ったのは、足下から低く響くエンジン音だった。 唸りを上げるモンスターエンジンは特大のタイヤたちを力強く回転させ、トレーラーの巨体を一気に加速させていく。 「119時間後ね。了解よ。まったく……アタシのベイビィが間に合うギリギリのライン良く知ってるじゃない」 U子は綺麗に整えられた眉を片側だけくいっと上げてみせると、前面パネルに取り付けられた旧式のカセットデッキを再生させる。 流れ出した80'sのUKポップスが合図のように、後部席のメンバーは「じゃ、人質は部屋に戻ってますんで。なんかあったら呼んでください」と一声掛けてシート後ろの扉を抜けていく。 「人質はローバーの調整しとくのよ!」 U子の声かけにリー・ミンが特有のノンビリした口調で「おっけぇ、U子ちゃん」と答えたのを最後に、扉は閉まっていた。 「……何も聞かないけど。アタシは勝手にヴェルちゃんが何しに行くか、理解したことにしたから」 「…………。」 「やっと行く気になったのね、大事な大事なあの子のとこ。……樹根核へどうやってヴィーナスダイスから昇るのか見当もつかないけど、アンタが必死になることなんて、それしかないものね」 「…………。」 「なによ。また、保護者として当然──みたいな綺麗事ぬかしたら鼻で笑うわよ。こんな大胆なことして。ホント──いつでもあの子の手を放せるなんて嘯いてたバチが当たったのよ」 鼻息も荒く言い切ったU子は 「そらみたことかだわ!」 と苦々しげに吐き出すと、パネル下のシュガーボックスからおやつのドロップを一つかみ口へ放り込み、バリバリとかみ砕いた。 シドは言いかけた言葉を飲み込んで、前方の景色を瞳に映し込んだ。 トレーラーは心地よいGを受けながらジャンクションの弧を巡り、行くはずだった左のラインに乗ることをせず、真逆である右の道へと曲がっていく。 どこまでも黒い大地が広がり、熱く乾ききった風が背後より髪を掻き乱し、乱暴なまでに吹きすさんでいく。 九つもの月が浮かぶ空は霞が掛かっていて、太陽によく似た中央の光源はチカチカと不気味に瞬いて見えた。 見渡す限り生きて動く物はなく、昨夜対峙したこの世界の守護者が唯一、意志ある生命体であったのかもしれない。 このティファレトという世界には、今、真実、亮とシュラの二人だけしか存在していないように思えた。 「あの辺りで少し休もうか」 隻腕の中、シュラの胸にすり寄るように寝息を立てている亮を起こさぬようそっと声を掛けると、砂漠の中に突き出た大きな岩山の影へ向かう。 確実な手応えを持って屠ったとはいえ、ミカエルとの戦闘地跡近くでは未だに不安を感じずにはいられなかったシュラは、あれから丸一日歩き通し、亮を抱いたまま数十キロの距離を休みなく移動していた。 昨夜の戦闘は時間こそ短かったが、彼が経験した戦いの中で最も激烈なものであった。腕を一本失っただけで得られた勝利は、多分に相手の傲りによる油断が大きかったとしか言えない。ミカエルの使う白炎に対しシュラが持つのは相剋に位置する蒼炎のみだ。それを瞬時に見通した大天使は、武器すら持たない人間風情に如何ほどのことができるのかと、世界の支配者独特の傲慢さで見下ろしていた。シュラが亮と離れたと見て、亮の居場所に気を取られたこともあったかもしれない。未だ本気を出す気のないミカエルに対し、だがシュラは形振り構わず今出し切れる全てを持って噛み付いた。 高く跳躍しつつ獄卒すら絡め取る糸を風に流し、僅かながらでも相手の機動力を削ぐことには成功した。彼の振るう巨大な白刃も、粘性の高い捕縛糸を斬ることは容易くなかったらしい。最も厄介な白炎の飛礫は捕縛糸を操り空中で何段階も跳躍し直すことで、可能な限り避けるしかない。それでも避けきれなかった白炎は、己の発する蒼炎をガードするための耐熱バンクルを反転ブーストさせることでわずかに威力を殺した。そうしてミカエルとの物理的距離がゼロになった時、シュラは燃え盛る羽根を右腕で掴み、全身全霊を込めた蒼炎を左腕に滾らせて、拳ごと男の口の中へねじ込んだのだ。 炎を操るシュラ自身がそうであるように、ミカエルも身体の内側までは炎を有していないはずだと推察しての賭けであった。 結果はあの巨大なクレーターを生み出した大爆発と、それにより砕け散った左腕──ということになる。 シュラの左腕が感じた最後の感覚は、拳の先で金属が溶けていくぬめりと、何か柔らかな果実のようなものを押し潰した瑞々しい触感だった。 爆風と強烈な熱波を耐熱ジャケットと耐熱バンクルでガードし、衝撃波は捕縛糸を前面のみ繭のように重ねることでやり過ごす。 それでも地面に打ち付けられてしばらくは気を失っていたらしい。 どのくらい意識をなくしていたのかはわからない。だが、シュラが起き上がったとき、周囲の大地は未だ幾筋も煙を上げ鼻につく臭いを漂わせていた。すり鉢状に抉られたクレーターの中央に立つシュラの頭上から、気づけば蛍のような白い輝きがいくつもいくつも降り注ぎ、足下を見ればそれらは光る綿毛のように揺れていた。この光がなんであるのか、シュラにはすぐに理解できた。だからそれら一つ一つがゆっくりと弾けるように消えていくのを、彼は全てが終わるまで黙って見届けた。 見届けずには居られなかった。輝きの一つでも消えずに残っていれば、それが再び追跡者となって亮を奪いに来るのだとそう思わずには居られなかったからだ。 全てが闇に包まれてようやく、シュラは息を吐き、亮の元へと戻ることができた。 ミカエルがもし蘇ったとして、たかだか数十キロという距離を取ることに意味があるのかはわからなかった。だが、本能があの場所へ亮を留めておくことをシュラにさせようとしなかった。夜の暗闇の中、そして夜が明けてからも、歩き続けるシュラの脳裏によぎるのは、完全に仕留め、焼き尽くしたはずのミカエルが再び蘇り亮を奪いに来るビジョンばかりだ。 片腕を失った今の状態で万全に迎え撃つことは出来ないだろう。 この不自由になった身体に己が慣れるまで、しばらく時間が欲しかった。 岩山は切り立っていて小山ほどの大きさはあるだろうか。海原の中に浮かぶ無人島のようなその場所の麓に窪みを見つけ、シュラはそっと亮の身体を降ろしていた。 己もその横に座り込むと亮の身体を足の間に抱え込み、抱き寄せる。 ここならば強い風も時折刺すようにギラつく日差しも遮ってくれる。 背を手頃な岩へ預け、ようやくシュラは息を吐いた。 気温は高いはずなのだが、寒気が止まらない。熱が上がっているなと理解する。 人外の激闘で腕を一本失って後、続く強行軍に、さすがのシュラの身体も悲鳴を上げているのだろう。 「おまえの具合はどうだ? まだおねむか?」 額に貼り付いた前髪を避けてやりながら、眠り続ける少年の顔をのぞき見る。 ハンカチサイズのタオルケットを握りしめ寝息を立てる亮の頬には少しばかり朱が差し始めていた。 シドの名前により絶望を思い出しアルマを砕きかけたあの瞬間の亮の肌色は、まるで薄硝子の如く白く透き通るようで今にも割れて消えてしまいそうだとシュラを震えさせたが──、クラウドリングにより本来の亮の記憶を全て切り離された今、何もわからぬ白痴のような状態ではあるが、安らかな眠りを得て少しずつ回復を見せている。 歩き続けている間も何度か目を覚ました亮だが、言葉を発することもなく、ただ嬉しそうにシュラに身を擦り寄せるだけだった。 それでも、腕の中に心地よい重みが生きて動いてくれるだけでシュラの心は満たされる。 愛しげに頬を撫で、今一度胸の中に抱え込みなおすと、シュラは身を横たえて目を閉じた。 急速に意識が遠のくのがわかる。 だがそれでもホールドした腕は固く、少年の身体を守るように抱え込み続けた。 どのくらい経ったのだろう。 シュラは寒さに身を震わせ瞼を持ち上げた。 いつしか日は落ち、世界は再び宵闇に閉ざされていた。 濃紺の空に浮く蒼い月を背に、少年がこちらを覗き込んでいる。 黒く大きな瞳を二度、瞬かせた少年は、心配げに眉を寄せ、 「シュラ、おねつ?」 と問うた。 名を呼ばれたことに驚き一瞬目を見開いたが、すぐに平静を取り戻すと少年の頬を撫で 「ん、大丈夫だ」 と微笑んでみせる。 己の身体を馬乗りにまたぐように乗りかかった亮の身体を抱きしめ、ゆっくりと身体を起こす。 「亮はどうだ? 寒くないか?」 ベルトポーチから取り出した非常用固形燃料をすぐ脇に置くと、カウナーツを使い蒼い炎を灯した。 これで明るさと暖は取ることができるはずだ。 晴れた夏空のような蒼が揺れ、亮は嬉しそうに歓声を上げた。 「シュラの火、きれい。まほうみたい!」 思わず破顔し、シュラは亮の身体を抱きしめる。 身体の奥底から甘い蜜が湧き上がり溢れて止まらない。 しあわせというものを、手で触れ目で見て味を知ったかのような確乎たる感覚に、自分の選択は一つの過ちもなかったのだと改めて噛み締める。 「ご要望とあらば、いつでもいくつでも」 軽く右腕をスイングさせれば小さな炎が幾筋も砂漠を走り抜け、蒼い軌跡を描いた後、星空のように無数の点描を残していく。 瞬きをする間に大地一面に眩い星座が広がっていた。 「わぁ……すごい。きらきら、きれい」 大きな飴玉みたいな瞳を輝かせて腕を伸ばし、亮が立ち上がろうとするのを、シュラは慌てて捕まえ引き留めた。 見た目は蒼く涼しげなシュラの炎だが、触れば一瞬で亮の細い指先など焼き落としてしまう。 「こらこら、熱いから触るなよ!?」 『亮くんの様子はどう? 少しは意思疎通できるようになった?』 不意に空から声が降りかかる。 数日ぶりに聞く有伶の声は前回より明瞭にシュラの耳に届いていた。 待ちわびたナビゲーションの回復に、やれやれと天を仰ぐ。研究局トップには聞きたいことが山ほどある。 『クラウドリングを最高深度に上げた代わりに、亮くんのアルマコピーが蓄積していたデータをつなげたんだ。人間とは比べるべくもないささやかな情報量だけど、言葉を理解し話すことは可能になる』 有伶が語る亮の意思疎通回復のカラクリに、シュラは僅かに眉をひそめた。 亮のアルマコピーを研究局が作りだし利用していたなど許せることではないし、そんな実験体の記憶データを勝手に亮へ使い回す事へも不快感しかない。 今シュラの膝上で見上げる亮の自我が果たして亮のものなのか、それともアルマコピーのものなのか、胸の奥で得体の知れないざわつきが広がっていく。 だがシュラの沈黙をいいことに、有伶は現状について止まることなく語り続けた。 『あの子達は自我がない分不安定なんだけど、13番の子は比較的安定した学習を行えたから、亮くん本体のアルマとも馴染みがいいはずだよ』 「馴染みがいい? 13番目? おまえは何を言ってるんだ! これ以上亮のアルマを好き勝手触るのはやめろっ。何人も何人も亮の分身を作って殺して、亮本人にも同じ真似をするってのか!?」 声を荒げたシュラに対し、亮の身体がびくりとすくむ。 すぐさまそれに気づき、「すまねぇ。おまえに言ったんじゃないんだ。びっくりさせちまったな」と優しげに声を掛け、シュラは亮を抱き寄せ、背中をポンポンとあやしていた。 「シュラ、誰かとお話、してる? 誰かいるの?」 不思議そうに問いかける亮は辺りを見回し、何も見つからないとわかると「誰もいないね」と小さく首を傾げる。 『え、うそ。亮くん、僕の声、聞こえない? ジオットは聞こえてるんでしょ?」』 「……ああ。聞こえてるのは俺だけみてえだな。おまえらは嫌われてんだよ。亮からも、13番目の亮からも」 吐き捨てるシュラの言葉に、有伶は小さく苦笑を漏らした。 『多分、それ、当たってるかな。……弱ったな。亮くんのアルマは今見たくないもの、聞きたくない音は全てシャットアウトしてる。それで己のアルマを回復してるんだ。今受け入れているのはジオットの存在だけってことなのかも。……亮くんが僕らの期待するお仕事ができるようになるまでは、まだ少し時間がかかるね』 「当たり前だ。そんなクソ仕事、どうだっていい。亮が亮として生きていく。その為だけに俺はここへいる」 『そう怒らないでよ。No.サーティーンのことは気にしなくて大丈夫だ。アルマコピーに自我は発生しない。コピーは所詮コピーで、アルマ本体ではないからだ。……ただ少し機械的に記憶という観点で混線することはあるかもしれないけど、亮くんのアルマの回復状態を見て、段階的にクラウドリングの深度を軽くしていく。そうしたらサーティーンの記憶は膨大な亮くん本人の記憶の渦にのまれていってしまう。だから心配いらない。今キミの抱いている亮くんは、間違いなく亮くんなんだ』 シュラの不快感の根底を見透かしたような有伶の言い草に、シュラは小さく舌打ちをした。 それを大きな眼で興味深そうに見上げていた亮が、まるでシュラを真似るように同じく小さな舌を鳴らしてみせる。基本的な言葉の意味のみ理解する今の亮にとって、その行為は学習する対象のようで、うまくいったと感じると、嬉しそうにそれを繰り返していた。 シュラは困ったというように顰め面をし、 「おいおい。そんなこと覚えるな。……ああ、くそ、俺が悪かった。亮、舌打ちは悪い大人がすることだ。亮にはまだ早い」 と、おでこを付き合わせ、亮の髪をワシャワシャと掻き乱す。 そんなシュラの様子に、亮は楽しげに笑った。 「とおるも、シュラといっしょがいい。とおるも、悪い大人になる」 シュラがますます苦り切った顔で「それはあと十年待ってくれ」と泣き言を言えば、亮はもう一度首を傾げわずかに黙考した後、「うん。いいよ!」と大好きなシュラへ快諾を告げていた。 『……驚くね、全く。13番のデータとつなげたのはついさっきだってのに、どうやって初対面の亮くんをこんなに懐柔したんだ? なぁ、真剣な話、その極意を教えてくれないかジオット』 「初対面? 亮は最初から俺の名前を知ってたぞ?」 『はぁ? ……いや、そんなはずない。アルマコピーにはジオットの情報どころか、樹根核外の情報は何一つ与えていないんだ。僕やルキくんの名を知ってはいても、あんたやシドさんについては名前どころか存在すら認識してないはずだ』 「……じゃあコピーでなく、亮本人が覚えててくれたんだろ」 『それは不可能だよ。今の亮くんはクラウドリングで記憶の根底にある言語体系そのものを失ってるんだ。生まれたての赤ん坊は親の名前すら覚えることができないのと同じで、どんな大事な人でも、今のこの子が個人名を覚えていられるはずがない」 現状を完全否定する有伶の物言いに、シュラは微かに口元へ笑みを浮かべる。 「おまえがそういうなら、……そうなのかもしれないな」 『誤魔化すなよジオット。いいからタネを教えてくれ。僕たちも直接亮くんとコンタクトを取りたいんだっ』 「タネも仕掛けもねぇ。亮と話したいなら、もっと亮の声を聞いてやることだ」 『そんな精神論はいい。なぁ、あまり時間がないんだ。気づいているかどうかわからないが、僕らがいる樹根核内部と、あんたたちがいるティファレトそのものの間で尋常ではない時間壁が形成されつつある』 「時間壁? なんだそりゃ」 『こちらとそちらで大きなタイムラグが起こる壁だよ。前からこの問題は重要な課題だったんだけど、つい数分前からその傾向が強く表れ始めてる。そもそも樹根核は現実世界であるマルクトと合わせるように強引に時間軸を固定し、ティファレト内へ建築された人工セラだ。肉体そのものを打ち上げるに際し、現実世界とこちらがあまりに乖離した時間を送ると浦島太郎状態のとんでもないことになるからね。樹根核の時間を安定させること──それが可能だったのはティファレトもマルクト同様、時間の流れを持っていたからなんだけど』 「ぐだぐだ長いな。結論だけわかるように言えよ」 『似てはいてもやはり現実世界とここは異なっている。ティファレトの時間流そのものはそもそも不確定なんだ。場所により、タイミングにより、こちらの1秒が十倍にも百倍にもなり得る。その大きな波がすぐそこまで来てる。そうなるとこちらがいくら頻繁に交信をかけても、そちらに届くのは数日後、数年後、場合によっては数十年後ということになる可能性も否定できない』 「──31倍っていうセラ潜行の比じゃないってことか」 『そうだ。その場合、あんたと亮くんは完全に孤立する。それを避ける唯一の方法が、亮くんとの直接コンタクトなんだ。──僕が前回あんたと会話してから、おそらくそちらでは四日は経過してるだろう?』 「ああ。それくらいにはなるな」 『だけど樹根核側からは、今、現時点で亮くんの暴走から七分ほどしか経過していない』 シュラは僅かに呻くと藍色に陰る空を仰ぎ見た。 この時間のずれは今後ここで生きていく上で大きな問題となるだろうことが、切実に理解できた。 亮に何か起こったとき、即座に有伶の助言を仰げない場合も多いということだ。 『時間壁の大波が来る前に伝えることは、そっちにとても強いバケモノクラスの番人がいるから、気をつけてってこと。彼は白炎を使う。ジオットの蒼炎は通用しない相手になるから、こちらで作った武器を一式転送するよ。この弾丸を使えばそいつも粉々に弾け飛ぶ──予定だ』 唐突に有伶が語り出した忠告に思い当たる節がありすぎて、シュラは思わず嘆息した。 「ミカエルか? 夕べ倒したぞ」 『は?』 「戦闘跡地は超でけぇクレーターになっちまったが、そっちにデータで出たりしてねぇのか」 『いや、ちょっと待って待って! 倒したってミカエルを? どうやって! ジオットのカウナーツじゃどうにも出来ない相手だから、補助の武器を今まさに転送してる最中なんだけど!?』 「大分遅いがもらえるもんはもらっとく。あいつのせいで今の俺は左腕が吹っ飛んで跡形もなくなってるからな。出来れば片腕で扱えるヤツの方がありがたい」 シュラの語る情報に、絶句したのは有伶の方だ。 『腕!? こっちにあるアンタの身体にはまだついてるぞ!? ……そうか、時間壁の影響で肉体へのバックが遅れてるのか。ていうか、平気なのかジオット、腕が飛ぶって大けがだろうがっ』 「武器を送れるなら捕縛糸のカートリッジと固形燃料、その他生活物資やレーションも一緒に送ってくれ。亮をもう少しましな環境で休ませたい」 『それはもちろん希望に添うようにするけど、ミカエルがいないとなると、時間の不安定さは以前の比じゃなくなるな……。もう一度対策を検討して……』 音声が次第に不明瞭になり、音声が途切れる。その後はいくら話しかけても応答はない。たとえ応答がなくとも音声を拾うだけは拾っていると以前彼は言っていたが、時間壁とやらの波がやってきているらしい今、それすらも怪しいものだった。 程なく周囲に現れ始めた数々の物資を確認するシュラの横で、亮は大きな瞳いっぱいに好奇心をたぎらせて、何かにつけて手で触ろうとする。 それが食品や衣類なら構わないが、有伶の語ったミカエルさえ殺しうる銃器類にまで及ぶため、その度シュラはいちいち亮を抱き寄せ、コレには触るなと噛んで含めるように言って聞かせる。 ダメだと言われるたび不服そうに唇をとがらせ、それでもまためげずにいたずらを始める亮が愛しく、シュラは胸の奥より湧き出す糖蜜のような感情を持て余すしかない。 シュラと亮。二人だけの世界が始まった。 |