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 9月3日 午前2時少し過ぎ。
 突如それは始まる。
 白く大理石のようなシドの肌が瞬きの間に辰砂の如き赤となり焼けただれていく。
 腹部には内臓に達する傷が出現し血を吹き出すとすぐに焼かれて固められた。
 こうなることは毎年の当たり前の流れであり、昨夜は早くから二人ベッドへ潜り込んで居た。
 呻き声を殺して奥歯を噛みしめたシドは額にびっしりと汗を掻き、身を起こしかけまたくずおれる。
 亮はすぐにシドの腕の中から這い出すと、ヘッドボードに置かれたガーゼでシドの顔を拭った。
 ぐずついて浮いた皮膚を剥がさぬよう細心の注意を払って、そっとガーゼを押し当てていく。
「シド……」
 声を掛けると琥珀色の瞳が薄く覗き、ひび割れた唇が「大丈夫だ」と動いた。
 だが、すぐに瞼は閉じられいつもは感情を表さぬ整ったその顔が苦悶に歪められていく。
 亮は己の唇を小さく噛むと、すぐさまシドの服を慎重に脱がせ全身から滲む浸出液をガーゼで抑え込んでいく。
 サイドテーブルに用意しておいた晒し布へ手を伸ばすと特に怪我の度合いの酷い腹部や肩口へきつく巻き付けた。
 腕を上げさせ、足を持ち上げる。
 シドの身体を重く感じた。骨も筋肉も亮のものとは質が違うのを痛感する。
 いつも二人でじゃれ合っている時、いかにこの傍若無人で意地の悪い男が自分に対し負荷を掛けぬようにしているのか──こんなときにわかってしまい、亮の胸に甘くくすぐったいような痛みが走った。
 熱が、高い。
 触れる肉体の全てが熱く、イザの王であるシドのものではないようで亮の表情は辛そうにしかめられていく。
 羊が一巡する時訪れるいつものイベントだとわかってはいても、亮は恐怖と焦燥感をぐっと堪える作業をいつも強いられる。
 こんなになってもシドは動いて走り続けて亮を迎えに来てくれたのだ。
 亮はベッドを降りると冷蔵庫へ走り事前に作り置きしておいた氷を取り出して、タライにいっぱいの冷水を作ると駆け戻る。
 額に冷えたタオルを固く絞って乗せる。
 こんなに身体は熱いのにシドは寒さで震えていて、亮は暖炉へ飛んで行くと薪をくべ火をおこした。
 窓硝子に叩き付ける雨粒の音に薪の爆ぜる音が混ざりだす。
 何度も水を替え夜を明かし、薄暗い昼を越え再び夜が来る。
 時折目を開けるシドに亮は自分の姿がその琥珀に映るよう身を寄せた。
 口移しで水を飲ませ、同時に右手首から滴り落ちる己の血も一緒に含ませる。
 意識のないシドはいつもならば絶対に口にしようとしない亮のゲボ血を容易く受け入れ、飲み干していく。
 そうすると僅かながらシドの呼吸が穏やかになる。
 亮もその行為を続けるため、少しだけパンを食べミルクを飲んだ。
 そしてまたシドの晒しを巻き直し、浸出液を拭い取る。
 早く、早くと気ばかりが焦っていた。
 何度も壁に掛けられた古めかしい時計の針を視界に入れてしまう。
 赤銅色の盤面は重く光り黒い針は暖炉の火に赤く染まっていた。
 あれから日は三度昇り三度落ちた。

 9月6日。
 もう限界だ。
 亮の与えるゲボ力は絶大で、シドの身体は徐々に人としての機能をまともに果たし始めていた。
 熱はまだまだ高いがしかし、室内の気温が暖炉を焚いているのにも関わらず急速に下降しているのは彼のアルマもまた回復の兆しを見せている証だろう。
 亮が口移しで水を注ぐと腕を持ち上げようとする素振りを見せる。
 きっと自分を抱きしめようとしているんだと、亮は思った。

 サイドテーブルには冷えても美味しくなるように味付けしたお粥とスプーン。
 水差しにはたっぷりと氷水を入れ、ガーゼや晒しの替えや、ナイトウェアの替えも傍らに揃えられている。
「シド──」
 ベッドへ乗り上げると亮は代わりに柔らかくシドを抱きしめ、焼けただれた頬にキスをした。
 目を閉じたまま荒い息を吐くシドの髪を撫でてその顔をじっと見た。

「シド。オレ……、もう、置いて行かれるのは嫌だとか、待つのは嫌だとか……そんな風に考えるの、やめる。
 ずっと一緒に居られる方法。
 これしかないと思うんだ。
 だから……今度はシドが待ってて。
 ほんの少しだから。
 きっとすぐに、終わるから」

 まるでいつかシドから聴いた子守歌のように、亮は囁く。
 唄うように、宥めるように。
 身を起こすと唇をそっと重ねた。
 いつか東京の部屋で眠ったシドへキスをした。
 あの日のことが頭の片隅に流れた。
 ベッドの横で丸まっていた亮の大事なタオルケットを広げると、アイスグリーンのそれをそっとシドの身体に掛けた。
 
 そのまま──亮は何も持たずに部屋を出た。

 白いシャツ。デニムのパンツ。ちょっとだけ背が高く見える赤いスニーカー。
 玄関を出ると重く垂れ込めた雲の切れ目から細い月灯りが差し込んで草木を光らせていた。
 そのくせビーズみたいな雨粒がぱらりぱらりと転がり落とされ、亮の髪や羽や肩を濡らす。
 庭を歩き窓を見上げる。
 ほんの4.7秒。
 瞼の上に雨が落ち一筋の道となってシャツに落ちた。
 そしてまた歩き出す。
 馬小屋に入るとアブヤドとアズワドが二頭並んで亮を待っていた。
 灯りは点けなかった。点けてはいけないから。
 窓から差し込む金色の月明かりだけが亮の周囲を照らしてくれていた。
 奥に進むと二頭はじっとその様子を見つめ、そしておもむろに二手に分かれて亮を迎え入れる。
 黒駒が背後の藁山へ鼻先を突っ込むと、少年の手のひらに小さな端末をポトリと落としていた。
 亮が藁屑を払うと長い間触れてもいなかったローチのスマートホンはすぐに息を吹き返し、白く画面を光らせて『9月6日 午前2:31』を示す。
 亮は一つ大きく呼吸し、指先を画面に滑らせた。
 現れた白い林檎のアイコンをタップするとメッセージアプリが起動する。
 一番上に表示されているのは『1000日記念トロフィーを獲得しました』の文字。
 色をなくし震える指先が何度か近づき離れ、そして触れた。
 亮の様子を伺っていたアブヤドが気遣わしげに鼻を鳴らす。
 しかし亮はそれに応えることもできずゆるゆると画面をスクロールさせた。
 と。
 その指先が止まる。
 スッと鋭く息を吸った。
 自分の中でミトラが身動ぎをしたのに亮は気づいたからだ。
 だが──、内なる神は何も言わない。
 何も言う必要がないのだろう。
 最早彼の勝利は確定しているからだ。
 卵の殻よ早く割れよと急かすことなどもう彼には意味のないことなのだ。
 ここを出る呪文は亮に時を戻し、ミトラはやがて育ちきって内から亮を引き裂くだろう。
 ビアンコに梁を施されたあのグロテスクな痛苦は思い出すことすら亮の身体は拒絶する。
 あれと同じ……いや、おそらくそれ以上の残忍さで亮は千切られて行くに違いない。
 亮は自分の内側で成り行きを見守る彼の鼓動を感じながらポケットの中に手を入れた。
 ハーフパンツのポケットから取り出されたのは小さな茶色い薬瓶。
 透かしてみれば、中にはとっぷりと液体が充たされ窓から差す月光に揺れている。
 ビアンコが施した亮とミトラを分かつ頸木。それを解き放つ最後の鍵であるこのアイテムは亮をただの薄っぺらな卵の殻に戻す毒薬だ。
 戻れば最期。亮は時を待たず割られ、世界は消し飛び、シドも溶け落ち、優しく、痛みも苦しみもなく──亮はシドと愛する全てと混ざり合って新世界の材料となる。
 右手に苦痛の呪文。
 左手に優しい毒薬。
 どちらを選んでももう後には引き返せない。
 亮はじっと左右の手を見つめた。
 賑やかに聞こえていた雨音が間隔を狭め、屋根を叩く木の音色は激しく強く耳を塞ぎたいまでに膨れあがっていく。
 いつしか月も隠れていた。
 厩の中はスマホの画面から浮かび上がる淡い白だけに照らされていた。
 亮はしゃがみ込んだ。
 藁の上にスマホと薬瓶を並べ膝を抱える。
 今、この時、何かしなくてはと覚悟を決めてきたはずだった。
 だがやはりそこで身体はすくんでしまう。
 小さく鼻をすすった。

 まだ、もう少し──ここに居てもいいのではないか。
 シドと一緒に眠って起きて、この美しいセラで過ごしても構わないのではないか。
 消えることはいつだってできる。
 その瞬間まで、ずっと欲しがってきたこの夢みたいな時間を続けていいのではないか。
 どうせ世界は自分のことを嫌っていて酷いことばかり押しつけてくるのだから。

 ──それも当たり前か。

 とも、思う。

「オレは今の世界を全部壊して今の世界の人を全部殺して全部全部無くしてしまう悪魔なんだから」

 しかし、だからと言って亮が彼らに報いる義理などない。
 世界が亮を嫌いなように亮だって世界が好きではない。
 だったらもう全部なしにしてしまいたい。
 一番幸せなこの羊の寝床で融けてしまうのはとても甘い提案のような気がする。

「シドとシロップになる……」

 馬たちは何も言わず足を折り、亮の周りを囲んだ。
 亮は左手に薬瓶を取った。

「みんなに会いたい」

 呟きが漏れた。

「修にぃ。
 シュラ。
 ルキ。
 久我。
 俊紀や秋人さん。」

 世界は亮を嫌いだけれど、でも──と思った。

「オレのこと大事にしてくれたみんなに会いたい。
 オレをオレにしてくれたオレの宝物」

 亮がいつか外に出られるように、シドは本を読んでいる。
 シドは方法を見つけてくれるだろうか。
 亮が外に出ても中のミトラは眠ったままで、だけど枯れそうな生樹も助かる凄い方法。
 全てが元に戻る特別なやり方。

 ──オレは駄目だ。きっと、何十年経っても、何百年経っても、あんな難しい本、読み解くことなんかできやしない。

「全部シドに頼って、全部シドに任せて、オレは……」

 ──これはオレの問題なのに。
 ──オレは父さんに作られた偽物のアルマかもしれないけど。

「こうやって考えること、できる。
 やりたいことも、たくさんある」

 ──オレにだって意志がある。

 亮は目を閉じ深く息を吐いた。
 薬瓶を持つ手は震え続けている。

 ──もう、思い出してるはずだ。

「……オレ、全部、覚えてる」

 ミトラが亮のアルマを壊そうと見せた消された現実。
 亮を護るため無かったことにされたおぞましい出来事の数々。
 亮でない亮が過ごしていた生活。
 あの子としたまた明日という約束。
 誰も迎えに来ないのはつらいから。

「オレが迎えに行かなくちゃ」

 ゲボである自分。生け贄と呼ばれる自分のアルマの在り様が、その時ストンと亮の中に落ち込んできた。

「消えたくなくてじっとしてるのは、消えてるのと同じだ」

 亮の手からポトリと薬瓶が投げ落とされた。
 そして俄に立ち上がると赤いスニーカーのかかとが、茶色の薬瓶を踏み潰す。
 カリン──と小さな音がして、亮を救う最後の鍵は砕け散った。

「──っ、なぜだ。おまえは何を考えている。わからない。わからない。我はわからない。おまえは言っていることとやっていることがバラバラだ!」

 亮の口から亮の声で違う誰かが責め立てた。
 亮はそれを無視すると、足下に転がるスマホを手にした。
 その行動はミトラに更なる混乱を起こさせ、亮は己の内の最後の頸木が軋む音を聞いた。
 しかしもう止まることはない。

「頭のいい方法はわからない。
 でも、オレの身体と記憶とアルマは──最初から知っていた」

 考えろ。
 オレに何が出来るのか。
 オレが本当にしたいことは何なのか。
 全部使うのだ。
 身体も記憶もアルマも全部。
 目を背けるな。
 受け入れろ。
 けれど、あらがえ。

 亮の指がメッセージをスクロールさせる。
「──っ」
 亮の目がこのセラを出るためのローチの呪文を捕らえた。
 そしてその腕でスマホを投げ捨て、二頭の馬たちを抱き寄せると囁いた。

「行こう」

 ミトラが何か叫ぼうとしたが亮はそれを許さず、その唇で高らかに謳った。

「おはよう、羊!」

 バン──ッ   と扉の開く音が木魂した。

 馬小屋は消え失せ、満天の星空の下巨大な裂け目が口を開ける。
 その先に現れる紺碧の晴天と遙か彼方まで続く崩れ落ちそうな白い煉瓦道。

 ループザシープは今、開いた。

「アズワド。アブヤドを借りるね。
 ……あと、シドのこと、お願い」

 そう言って黒の首に腕を回し、親愛のハグを送る。
 艶やかな黒は了解した旨を鼻息で答え、亮の頬に擦り寄った。
 白い巨体へふわりとまたがると、アズワドは得意げに一度嘶き、背上の亮を見た。
 そうして力強く大地を蹴る。
 亮は一度だけ振り返ると、扉の向こうに小さくなっていく窓を見た。

「シ……」

 言いかけた名前が止まる。
 再び前を向くと晴天の下を駆けていく。
 崩れそうな道は自分のアルマとその行き先を表している様だった。
 それでも亮はもう振り返ることなく進む。
 内なるミトラが嬉しげにさざめいていた。
 彼にとっては亮の選択など右手も左手も同じことだ。
 卵の殻が苦しみながら割れていく──ただそれだけの選択を殻自身がしたに過ぎない。
 ミトラにとって理解しがたい行動だったが、彼にとっては勝利でしかなかった。

「──亮っ!!」

 声がした。
 背中に届く大好きな声。
 まだ動けるはずもないのに彼は気づき、自分を追おうとしている。
 亮は振り返ろうとする己の身体を力ずくで押さえ込み、目を閉じて叫ぶ。

「アズ、スピードを上げて!
 シドに追いつかれないように。
 オレを──オレの行きたいところへ連れて行って!」

 白駒は嘶くと一段ギアを上げ煉瓦道を蹴り上げた。
 紺碧の空の下、白い雲が無数の流線に変じ亮の両脇を飛び散っていく。

「私の揺り籠であったおまえの役目は終わる。
 創り出そう。
 すぐにでも、完全なる新世界を!」

 ボリュームの上がる音楽に合わせるように、ミトラの声が亮のアルマに反響していた。
 だがそれに応えることなく、亮はひたすら前へと走り続けた。