■ 5-99 ■




「御頭はどうぞご無事で」

 本当に短い一文だった。
 だが随分と長い間録音機能を回し続け、ようやく完成した一文だ。
 そのメッセージを完全に受け取ったのは、ローチが真冬に凍える羊の寝床から抜け出したその瞬間の数秒前のことだった。
 己の秘蔵の端末に届いたその一文を聴き取り静かに目を閉じたローチは、面倒そうに愚図るアブヤドを宥め賺し、夏の盛りのループザシープを後にする。
 どうにかこの世界まで舞い戻った彼は、すぐさま腹心のコーレイに連絡を図ろうと端末を取り出した。
 しかし確かに先刻確認したメッセージが入っていない。
 ローチ自身で消したわけではない。己の作ったこの端末で不具合もあり得ない。

 なのに在ったはずのメッセージがないということは、ある一つの事象を意味している。

 ループザシープを出た後のマルクト──現実世界との時間的流れの違いは理解していたローチだったが、起こった事象の差異について経験したのは初めてのことだ。
 何が起きていて何が起きていないのか──。
 最悪の事態も想定して、彼は雑踏の中からコールを掛けた。
 そして──。







 ノックが聞こえた。
 冷たいコーヒーをトレイに乗せて現れた小柄な男は、美しく撫で梳いた銀髪の頭を垂れ、卒の無い動きでテーブルへそれを置く。
 グラスの氷が涼しげな音を立て、微かに崩れた。

「御頭、そろそろアジトの掃除も完了です。千度──チェンドゥ──の広報に入れ込んだ雪梅も無事退かせました。入れ替えで革新技術部へ芽衣を準備させています」

 心地良い風にプラチナブロンドを嬲らせながら部下からの報告を流し聞くと、彼はそよぐ碧紗の日除けの向こうをじっと見据える。

「コーレイ。今日は何日だったかな」

 今いる建物は大通り沿いにあり騒々しいほど活気に満ち溢れ、朝市に集う人々は所狭しと咲き誇る色取り取りのパラソルの下を縫うように流れていく。
 聞こえてくるのは広東語か北京語か。
 唄う様に響く客寄せが心地よい。

「このセラでは六月二十一日。マルクトでは十二月三十一日。大晦日でございます」
「そうか」

 振り返ったローチは傍らに置かれた背の高い喫茶用のテーブルからグラスを手に取ると
「僕が戻って一週間。あっという間だったね」
 そう言って小さく息を吐いた。

「御頭が居られなかったこの三ヶ月と少々、どうにか持ちこたえることが出来て私はホッとしておりますよ」
「持ちこたえる? よく言うよ。全然問題はなかったじゃないか。──本当、気のせいレベルじゃない落差だ。僕が進んできた時間軸で起きた事象と、今いるこの世界で起きている事象には大きな食い違いがあるとしか思えない」

 キンと冷えたコーヒーを一口飲み下し、ローチは真紅の長袍を優雅にさばくと木製の天板へ片腕をつく。
 室内はガランと何もなく、土壁の黄ばんだポスター跡や古びた板張りの床の染みが馴染んで柄の様にすら見える。

「こちらへ戻られてすぐ仰っていたあの違和感のことですね」

 コーレイが口ひげを一撫ですると硝子窓を閉める。風に揺れていた青と金の鮮やかな紗が力を無くして静かに垂れ下がった。
 通りのざわめきが籠もった様にワントーン下がる。

「私が御頭にお別れの言葉をお伝えしたという縁起でもない思い出話、私、忘れもしません」
「そう根に持った言い方はやめてよコーレイ。
 事実ここに戻る瞬間まではそれが起きてしまった真実だったんだ。
 けれど僕が羊の寝床を出たことで時の流れは別の道に進路を変えた」

 確かにコーレイからの端末メッセージが消えたあの瞬間、時の行き先が変わったのだとローチは自覚した。
 だが実際にそれを体感したローチと違い、この有能な部下にはSFじみた上司の体験談などにまったくピンとくる要素がない。

「それは──御頭が我らの元にお戻りくださったお陰であの忌々しいIICRの手から逃れることが可能となったのでは?」

 何を今さらとでも言いたげに肩を竦めて見せたコーレイから視線をはずすと、ローチはどことも知れぬ遠方を見やる。

「それはないよ。コーレイが一番良くわかってるだろ? それに僕が戻ってからの一週間ですら、攻撃らしい攻撃は受けていないんだから。
 亮を奪った者の片割れである僕をIICRが血眼で探す──という当たり前の成り行きがこの世界からすっぽりと抜け落ちてしまっていると感じるんだ。
 そもそも今IICRが置かれている状況は最悪だ。
 世界の人口はどんどん減っていてその原因の究明と問題の解決を、各国首脳陣、そして世界企業のセレブ達からもせっつかれているはずだ。
 切実に早急に亮を取り戻し、オルタナを立て直さなくちゃIICRの世界での立ち位置が揺らぐ状況のはずだというのに、極悪犯シド・クライヴと奪われた成坂亮の行方を知る僕を探ろうとする動きがこんなにもないのはどうかしている」
「……御頭の悪い癖ですよ。攻撃されたがったり追いつめられたがったり」

 呆れた眼差しを向ける部下に、ローチは「僕の性癖の話は今は関係ないだろ!」と鼻息を荒くする。

「その上、今、どうやらビアンコが姿を消しているんじゃないかと僕は踏んでいる。
 ますますもってIICRは焦って動きまくってもいいはずなんだ」
「──っ、それは……。ビアンコの挙動はIICR中枢にいる一部の者以外知ることができない秘中の秘。我らのネットワークにも届いていない情報ですが……」
「確信できるソースはないけどね。でも状況証拠を並べてみるとそんなところじゃないかと思えて仕方ない」

 なるほど……と唸りを上げるコーレイを待たず、ローチは己の考えを整理するかの様に先を進める。

「とにかく彼らにとってもしんどい状況が続いているんだということは確かだと思う。──だからこそこの状況を打破する一番の鍵である成坂亮を奪還するためなら、形振りは構わないはずなんだ。
 僕がシドに手を貸して樹根核へ特攻したことは……控えめに言って……まぁ百パーセントバレてる。
 向こうには葛藤有伶が居て、あのぼんやり腹黒眼鏡が僕の存在に気づかないわけが無いんだから。
 だからこそ。羊の寝床で僕がバカンスを楽しんでいる時、IICRは死に物狂いで僕の居場所を探っていたはずだ。ここに居るコーレイの記憶にはないんだろうけどね」
「御頭が我らの元を出られてほんの十日ほどは確かに不穏な空気が流れていたのですが、それも長くは続かず現在の様な均衡状態へ移っていった様に思います」
「答えはそこにある。僕の予想だと──」

 そこで言葉を切りローチは碧紗を指先で捲ると窓越しにちらりと外を見た。
 大通りを行く人流の中にあり小山の様な一際大きな男が立ち止まり周囲を伺っている。
 黒の短髪、黒い瞳。中華系のこのセラにあって違和感を覚えない姿形をしていながらこれほどに異彩を放っているのは“自分はここの住人と無関係である”と宣言しているとしか思えないその出で立ちだ。
 分厚い樹脂製の肩当て。首元までホールドされたアーマーは耐熱耐衝撃繊維で編み込まれたIICRの特別仕様だ。
 彼の背に負われた極太の金砕棒は漆黒の鋼鉄で作られた電柱のようだ。
 あんな大物を武器として振り回す連中はウルツ種の中でもS級を超えた脳筋の化物でしかあり得ない。

「ウソだろ、ウルツ・インカがいる」

 水の流れに逆らって居座る大岩の様な男は、いかにも頑丈そうな大ぶりの端末で部下らしき相手に指示を飛ばしているようだ。

「っ、そんなわけは──今回のアジト引き払いも何ら問題なくスムーズに執り行われていたはずです」

 コーレイの言う通り、ローチも己にミスがあったとは信じられない。しかし何度瞬きをして見ようと、二メートルを超すその巨体は頑なにそこにある。

「しかし、ウルツ・インカが現れたとなると、ポリスだけでなくアーミーが動いているということ。御頭、いかがしましょう」

 一瞬の動揺は見せた者のコールドストーンナンバー2らしい落ち着きで、コーレイは厳しい表情を彼が全幅の信頼を置くリーダーへと向けた。

「これは──」

 しかし彼の上司は一言呟いたまま押し黙る。
 何か良からぬことが起きているという悲観的な感情はだがしかし、コーレイには僅かにでも湧いては来なかった。
 なぜなら彼の上司は笑っていたから。
 いつも以上に悪そうに。いつも以上に美しく。

「コーレイ、キミは先に戻ってて。夕食は血の滴るようなラムで」

 淀みなく告げられた指示のついでに夕飯のリクエストがついたところをみると、状況の解決は早いと言うことだ。
 何も心配は要らない。

「──は。ではそのように」

 一礼して部屋を出る。
 死にかけた裸電球が瞬きする廊下は狭く、ジメジメとして埃っぽい。
 歩く度に軋む床板を煩わしく思いながら左右の傾いだ扉を三枚ずつやり過ごしたあたりで、行く先に突如人が現れた。
 これほど安普請の建造物にあって物音一つさせずに、その人影は木製階段の最後の段を踏みしめ、コーレイの左手より現れる。
 ジワジワと呼吸をしていた黄色い光が一瞬完全に消え、窓のない廊下は暗闇に包まれた。
 足を止め目を懲らし身構えた。
 袖口に仕込んだ小刀を取り出そうとし、だが動きを止める。
 いや、止まる──が正しい。
 コーレイの長い人生の内に培われた勘がエマージェンシーを鳴らしていた。
 息すら出来ない。
 叩き付けるような凍気が彼の脇をすり抜け、背筋が凍る。
 背後で扉が閉まる気配がした。
 電球が息を吹き返したように再びぼんやりと呼吸を始める。
 コーレイは振り返れなかった。
 かの御頭のあの悪そうな笑みを思い起こし、震える足に力を込め歩き出す。
 彼の脇を通り過ぎた悪夢はコーレイに見向きもしなかった。
 きっと要件があるのは御頭だけだということだ。
 IICR武力局の何者かでないことは確実で在り、そうであればコーレイなど出る幕はない。
 人外の相手が出来るのは人外のみだ。




 扉が開き、入ってきたのはシドだった。
 だが僕の知るシドじゃない。
 野良犬のような目。
 伸びきったのを煩わしさで無理矢理刀で削いだようなぞんざいな髪。
 至る所が焼け、ほつれ、薄汚れた黒のコート。
 無精髭のシドなんて亮がセブンスに連れ去られた頃以来のレアものだ。
 野生の彼は人ではなく動物そのもので、僕はその男の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

「いつ戻った。なぜコールを取らない」

 低い声。まるで唸り声だ。

「聴きたいのはそんなことじゃないでしょ」

 シドが間を詰めようと左脚に力を込める前に、僕は窓を背に眼光を強めた。
 シドの動きが止まる。
 僕のヴンヨを弾くためにイザが盛り上がってくるのが目に見えるみたいだ。
 獣に身を落としていても──いや、落としているからこそ危機感知の力は研ぎ澄まされているらしい。

「亮はどこだ」

 これがこの男の知りたい全部なんだ。
 声を上げて笑いそうになり僕はそれを噛み殺した。

「そっか、あの子は目を覚ますことを選んだんだね」
「あれに何を吹き込んだ。修司の名でも出したか──。すぐに亮をここへ出せ」

 血の滴るような眼光は僕のヴンヨですらイチゴミルクのかき氷みたく凍らされ、部屋中にぶちまけられてしまいそうだ。

「僕が教えたのはあそこを出る合い言葉だけさ。あまりにもフェアじゃなかったからね。楽園のナリをした監獄に永遠に閉じ込められるなんて、喜ぶのは狂った変態だけだ」

 僕はまるで自虐するように嗤う。
 キラキラとあたりの空気が光っていた。
 窓からの木漏れ日に凍った空気の粒がダイヤのように光ってるんだ。
 僕の左頬と右手の甲に亀裂が走り、即座に凍り付いていく。

「コールに出なかったのは別の端末に替えたから。前のはもうあらゆる意味で危なくて使えやしなかった。こっちへ戻ったのはシドも知っての通り、羊時間で言う所の12月のクリスマス前」

 とりあえず最初の質問に答えてみる。
 それでもシドは動かない。
 きっと僕を八つ裂きにしたいのを抑え込むのに全精神を集中しているせいだ。
 僕がもし亮くんを隠していて「ごめんね、返すよ」って今シドの目の前に出したら──その瞬間僕は凍らされ破裂してしまうんだろう。

「シドこそ僕の所で油売ってる暇、ないんじゃないの? 亮くんが自分の意志で外に出たのだとしたら、タイマーはまた動き出してるはずだ。ミトラはもういつ復活してもおかしくない。ループザシープを出た瞬間から一週間、十日──、一ヶ月は無理じゃないのか」
「っ、……もう、三ヶ月と二十日が経っている。俺が亮を追うため羊の寝床を出てから、だ」
「──!? そんなことあり得るわけがない。僕らはここで生きてる。これが神の見せる夢でもない限り、世界はまだ廻っている。
 つまりミトラが解放されてはいないってことだ」

 三ヶ月!? そんな長い時に亮くんのアルマが耐えられることは絶対にない。
 それを僕はあの楽園の中で肌で感じていた。
「しらばくれるな! また気狂いの発想で貴様が何かしている以外にないんだ! IICRにも環流の守護者にも亮の居る気配はない。他にミトラを押さえ込めるだけの手立てを持つ存在はどこにもないっ」

 僕はその時全て納得がいってしまった。
 なぜ、僕のスマホからコーレイの別れのメッセージが消えたのか。
 IICRからの僕らへの追撃の手がこれほど温かったのか。
 ループザシープからは僕の方が先に外へ出たけれど、それはあの世界での話であってこちらの時間軸ではそうじゃなかった。
 あのセラのループする性質のせいで後から出たシドの方が前の日付へ現れたんだ。
 だから僕がここへ戻った時、既に僕にはIICRが目くじら立てて追うほどの価値がなくなっていた。
 シドは亮くんを求めてすぐにIICRへと特攻しただろうし、IICR側としてはそれ以降シドを標的として動くことになる。
 IICRが亮くんの身柄を持っていようといまいと、シドは亮くんを使う上でなくてはならないピースだからだ。
 僕らが情報を得られぬほどの徹底した統制の下、IICRはシドを追っていた──。

「ってことは、アーミーがここに居るのはおまえが原因か。まったく──迷惑な話だ。
 あいにくだけどミトラを抑える術も亮くんを維持する秘技も僕は持ち合わせていない。買い被りもいい加減にしてくれ。
 それに──おまえが亮くんに愛想尽かされたのも僕のせいじゃない。
 自分が一番わかってるんじゃないの? ねぇ、シド」

 ガツンとミサイルみたいな衝撃が左頬に炸裂し、僕は硝子窓に叩き付けられていた。
 背中が布越しに窓を割ったのを自覚した時に初めてぶん殴られたことを自覚できたレベルだ。
 理屈も論理的思考も何もない。
 そして「あとさき」を考えることなく感情のみで放たれた動物の拳は僕の頬を腫れ上がらせることに飽き足らず、下で彷徨いていた獰猛な怪力ゴリラを呼び寄せる呼び鈴となっていた。
 瞬時に身体を反転させ埃だらけの床を転がると、僕の割った硝子窓は壁ごと内側に爆発し濛々とした土煙を上げて砕け散った。

「シド・クライヴ!」

 空気を震わせる怒号が僕の鼓膜もたたき割らんばかりに響かせた。
 現れた二メートルを超える巨体は怒りのオーラで瘴気を纏ったかのようだ。
 今や武力局局長にまで登り詰めたウルツ・インカは面倒以外の何者でも無い相手だけど、今の僕のナイトとしてはこの上なく頼もしい存在だ。
 バツン、バチン──とけたたましい破裂音が上がる。
 空間が押しつぶされる時に発生するソニックサウンドを纏い、鬼の金棒みたいな真っ黒の電柱を振り回しながら躊躇いもなくシドへと突っ込んでくる。
 その一撃を抜き放った長刀で受け止めながら一歩も下がることなくシドは視線だけでこちらを睨みつけた。

「ローチ、きさまは──っ」

 ──本当に何も知らないのか。
 そう聞いてることは伝わったよ。
 でも僕に答える義務も余裕もない。
 僕は思いきり情感たっぷりにウィンクすると左の耳朶につけた赤い石を爪の先で潰す。
 その瞬間、ブラウン管の画面が消えるように──僕の目の前で景色の全てが収縮していく。
 多分あちら側からは僕の方が光の点に飲み込まれて消えたように見えたことだろう。
 それにしても──成坂亮はどこにいるのだろう。
 天に消えたか地に潜ったか。
 シドの言うことが正しいのなら、IICRにもテーヴェの所にもいない上にミトラが蘇った兆しもないということだ。

「これぞまさに神隠しだ」

 僕はベッドから身を起こすと新聞を配達するバイクの音を聴きながら、グッと一回伸びをする。
 カーテンの隙間から皓々とした雪明かりが淡い光の帯を差し込んで、シーツの上で揺れていた。
「っつ……」
 左の頬が痺れている。
 触れてみれば桃みたいに膨れて感覚が鈍い。
 これは酷い凍傷にやられちゃってるかな──。
 ベルカーノのお医者さんに行こうかとも思ったが、そんな時間的余裕はなくなった。
 液体窒素に漬け込んだ亮くんからのプレゼントでも解凍して使わせてもらおう。
 僕は貴重な手持ちのゲボ血を朝食に添えに、まだ暗いキッチンへと向かった。